袁夫人(袁術の娘/えんふじん)

袁夫人袁術の娘で、

 

袁術が逆賊の汚名を被って死んだ後は、

 

一族の者達に守られながら、

袁術の配下であった劉勲を頼って落ち延びていきます。

 

 

 

劉勲は長江・淮河に一大勢力を築いていたものの、

孫策に騙される形で破れることに・・・

 

孫策に敗れた劉勲は曹操の元へと落ちのびていくのですが、

この時に捕虜となった中に袁夫人がいました

 

また袁夫人以外にも

二喬として知られる大喬・小喬も捕虜となっていますね。

 

 

まぁ当時の感覚として、女性は捕虜というより、

戦利品の一つであったという言い方が自然だと思います。

 

大喬は孫策に、小喬は周瑜に嫁ぐことになりますが、

まだ幼かった袁夫人は呉郡へと送られることに・・・

孫権の側室となる

そこで月日が流れ、成長していった袁夫人ですが、

後に孫権に嫁ぐことになります。

 

袁夫人は父親である袁術とは違い、誠実な人柄であったものの、

孫権との間に子供を授かることはありませんでした。

 

 

そんな袁夫人を気遣った孫権は、

「養子をとって何度も袁夫人に養育させた」といいます。

 

しかし袁夫人が育てた者達は、

例外なく早世してしまうという不幸が続いたのでした。

天下三分の一端を担った孫権(仲謀)

孫権の皇帝即位&歩夫人の死

孫権は呉を建国して皇帝を名乗ると、

離縁していた徐夫人を皇后にする動きが起こりますが、

 

歩夫人を寵愛していた孫権は、徐夫人を皇后にするはずもなく、

「歩夫人をなんとか皇后にしたい」と考えるようになります。

 

 

しかし孫登や臣下の者達から反対を食らっていた孫権は、

誰も皇后にしないまま月日が過ぎていくことに・・・

 

そんな中で歩夫人は亡くなってしまいます。

 

 

 

歩夫人は死んだ後に「皇后」の位を追号したものの、

 

「生きていた頃に歩夫人を皇后にする」

という願いが叶わなかった孫権は大変後悔したといいます。

 

 

だからこそここで孫権は、

袁夫人を皇后にしようと考えたわけです。

 

しかし袁夫人は、自分に子がいなかったことから、

頑なに皇后になることを拒否しています。

 

 

後に生存中に唯一の皇后となった潘淑(潘皇后❳の嫉妬により、

袁夫人はありもしない中傷を受けたこともあったといいます。

 

その後の袁夫人がどういった生涯を送ったのかは分かっていません。

孫権の寵愛を一身に受けた歩練師(歩夫人)

余談(袁燿/袁術の息子

孫策によって助けられ孫一族の中で血脈を繋げた人物として、

今回紹介した袁夫人があげられるわけですが、

 

孫権と袁夫人の間には供ができませんでした。

 

 

しかし孫策が助けた中に、

袁術の息子で、袁夫人以外に袁燿えんようもいました。

 

ちなみに袁燿が袁夫人の兄であったのか、それとも弟であったのかは分かっていません。

 

 

袁夫人が孫権に嫁いだこともあり、

袁燿も郎中に任じられています。

 

そしてこの袁燿の娘は、孫権の息子である孫奮に嫁いだのですが、

呉最後の皇帝である孫晧の怒りを買って殺害されたといいます。

 

 

孫奮には五人の子供達がいたそうですが、

孫奮ともども処刑されることに・・・

 

 

孫奮が他の女性を娶ったという記録もないため、

おそらく五人とも袁燿の娘との間に生まれた子であった可能性が高いと思います。

 

しかし孫晧に殺害されてしまったことで、

ここでも袁術の血脈は残念ながらも途絶えてしまうのでした。

 

 

他にも袁夫人や袁燿と共に孫策によって保護された人物に袁術の妻もいたりしますが、

袁術の妻がどうなったのかなどは記録が残っていませんね。