孫瑜(そんゆ)とその一族

孫瑜孫静の次男として誕生します。

 

孫静は孫堅の弟にあたる人物になりますので、

孫瑜から見た孫策・孫権とは、従兄弟の関係という間柄ですかね。

 

そんな孫瑜の兄にはそんこうがいたり、

弟には孫皎・孫奐・孫謙がいたりします。

 

 

ちなみにですが孫瑜の子供たちには、

孫弥そんび・孫熙・孫燿・孫曼・孫紘がいましたが、

 

子供たちについての事は、孫瑜の子供達ということのみで、

ほぼ皆無と言っていいほど分かっていません。

孫皎 -優秀な人物でありながら、甘寧に喧嘩を売ったDQN-

一門の発展に邁進した孫静の四男、孫奐(そんかん)

孫暠の会稽独立計画×孫権から重用された孫瑜

孫瑜についての記載は、孫瑜が恭儀校尉に任じられ、

兵士を若いながらに預けられたあたりからいきなり始まったりします。

 

孫瑜はその兵を率いて烏程に駐屯していたようです。

 

 

そんな中で孫策が亡き許貢の食客らに襲われ、

その時に負った傷がもとであっさりと亡くなってしまいます。

 

 

その後は孫策の遺言に従って、弟である孫権が後をつぐわけですが、

 

まだ後継者がはっきりとしていなかった孫策死後の直後に、

孫瑜の兄であった孫暠が会稽郡で独立する動きを見せたのです。

 

孫暠は定武中郎将として孫瑜同様に烏程にいましたが、

兵士を率いて会稽郡へと向かうという流れになりますね。

 

それはそれは。

「孫策殿が死んだ今、

会稽を収めるにふさわしいのは自分だ!」

といわんばかりに・・・

 

 

しかしこの動きは虞翻によって読まれていたということで、

最終的に虞翻に説得される形で、孫暠の独立計画は終わりを迎えました。

 

 

その後は歴史が語る通り、孫権が正式に孫策の跡を継ぎますが、

 

孫暠の件があったものの孫暠の兄弟は罰せられるということもなく、

孫権に重用されていくこととなります。

多くの者達に歓迎された丹陽太守

丹陽太守で、孫権の弟でもあった孫翊が、

嬀覧・戴員・辺洪らによって暗殺される事件が起こります。

 

その後の丹陽太守に任じられたのが孫瑜でした。

 

 

孫翊が死んだのが204年で、

孫瑜が丹陽太守になったのが204年なので、

 

普通に考えて二人の間に誰かいたとかではなく、

孫翊の後継として任じられたと普通に思ってよいと思いますね。

 

 

孫瑜は多くの人に慕われていたこともあり、

 

丹陽太守に任じられた孫瑜の元には、

多くの者達(兵士)が集まってきたといいます。

 

その数は一万人以上にも上ったそうです。

武勇に秀でた孫堅の三男、孫翊&徐氏【妻】

周瑜から大きな信頼を受けた孫瑜

206年に周瑜と共に行動し、

麻・保の砦の制圧に成功したという記録が残っています。

 

 

周瑜は孫瑜を非常に信頼していたこともあり、

 

「天下二分の計」を計画し、

益州へと攻め込むことを計画していた際にも、

 

「益州奪取の成功後は、孫瑜に益州を任せよう!」

と思っていたほどの信頼ぶりだったといいます。

 

 

 

そして天下二分の計が実行に移されようとした直後に、

 

江陵戦(VS曹仁)で受けた傷が悪化したことで、

周瑜は亡くなってしまいます。

 

 

本来ならば周瑜の益州侵攻では、

孫瑜に水軍を任せる予定でしたが、

 

周瑜が死んだ事でこの計画はなかったこととなります。

周瑜が描いた益州攻略からの「天下二分の計」

 

 

 

もし益州に周瑜が攻め込んでいたならば、高い確率で益州制圧に成功していたでしょうから、

劉備にとってはものすごくラッキーなことだったと思いますね。

 

 

そうすれば三国時代なんてのは成立しなかったでしょうし、

 

三国志を好きな人達から見ても、

このタイミングでの周瑜の死は、ある意味よかったといえるかもしれません。

 

 

とにかく周瑜の死んだことで、

孫瑜は夏口まで引き返して、そこの守備を固めたといいます。

濡須口の戦いで孫権を諫める

曹操が馬超・韓遂らの討伐に成功したこともあり、

これまで以上に多くの兵士を対孫権として準備できるようになります。

 

その結果、曹操は孫権を倒すべく、

濡須へと侵攻開始!

 

 

この時に曹操が率いていた兵力は、赤壁の戦い以上だったともいわれるほどで、

孫権軍が受けた被害も大きい戦争でした。

 

例えば董襲の溺死なんかは、

孫権にとって一番ショックが大きい出来事だったかもしれませんね。

黄祖討伐の立役者「董襲」

 

 

 

とにかくこの戦いは、お互いに多数の兵士を失い、

一進一退の攻防が続く戦いでした。

 

 

最終的にこの戦いは引き分けで終わるわけですが、

 

「もし息子を持つとしたら、

孫権のようなものが欲しい!」

と曹操に言わしめた戦いでもありましたね。

 

 

他にも三国志演義に登場する、

諸葛亮の矢集めの元ネタが生まれた戦いでもありますが・・・

 

そのような戦いの中で、

孫権が前線での指揮を採ることもあった為に、

 

孫瑜が孫権に注意を促したという話も残っていますね。

 

 

まぁぶっちゃけ孫権と孫瑜のどちらの考えが正しかったのかは、

個人的にはどうでもいいレベルの内容ですね(笑)

 

「大将自ら前線で戦って何かあれば大変である点」

を考えると孫瑜の方が正しい気も少なからずはしますけど・・・

 

それにしても孫瑜について書くこともなかったのか、

本当にどうでもよい内容です。

 

大事なことなので二度(ry

その後の孫瑜

孫瑜はこれまでの功績が積み重なり、

奮威将軍へと昇進します。

 

絶大な支持を得ていた丹陽太守はそのまま任されていましたが、

自らが普段から駐屯していた場所を溧陽から牛渚へと移すことになったようです。

 

 

 

また孫瑜は永安出身の饒助を襄安の県長に、

無錫出身の顔連を居巣の県長に任じて、二人にはあることを命じたのでした。

 

それはまだ孫権の支配下になかった、

九江郡・廬江郡を帰属させるというもので、

 

これが見事に良い結果に結びつき、

二郡は孫権に帰属させることに成功しています。

 

 

 

そんな孫瑜でしたが、

215年に若くして亡くなってしまい、

 

孫瑜が所持していた多くの軍権は

弟であった孫皎が引き継ぐことになったのでした。