孫奐(そんかん)

孫奐孫権から見ると従兄弟にあたる間柄であり、

孫堅の弟である孫静の息子になります。

 

 

孫静は会稽城攻略に苦戦する孫策を助けた人物としても知られていますね。

 

 

 

そんな孫静の息子である孫奐には、

孫暠・孫瑜・孫皎が兄におり、

 

弟には孫謙がいたりします。

 

 

その中でも名が比較的に知られている人物は、孫瑜・孫皎の二人かなと思いますね。

「天下二分の計」の水軍担当予定だった孫静の次男、孫瑜

孫皎 -優秀な人物でありながら、甘寧に喧嘩を売ったDQN-

 

 

 

兄の孫皎が病死したことで、

孫奐は兄の兵士を引き継ぐことになるのですが、

 

孫権はそんな孫奐を揚武中郎将、そして江夏太守に任じています。

 

 

まぁこの時の江夏は魏領でしたので、形だけの役職ですね。

 

 

三国志の時代は、

名前だけの役職みたいなのがめちゃくちゃに出てきますので、

 

孫奐の江夏太守任命もその一つですね。

 

 

まぁ比較的に取得できる可能性がある、

近隣の江夏であることだけがまだ救いですが・・・

 

もし奪えた際はそそこくさと赴任できるわけですからね。

 

 

ひどい場合は「絶対無理だろ!」

っていう土地の太守や刺史や州牧に平気で任じますから(笑)

曹丕の死×江夏侵攻

曹丕があっさりと逝くと、

それに乗じて孫権は江夏への侵攻を開始!

 

 

相当にチャンスだと思ったのでしょうね。

 

自ら五万の兵を引き連れていったほどですから・・・

 

 

孫奐も孫権に付き従って江夏へと攻め込むわけですが、

 

江夏の守りを任されていたのは、

鉄壁の守備を誇る文聘でしたので、

 

孫権が自ら大軍を引き連れてこようとも、

曹丕が亡くなった直後であろうと関係なく守り切るわけです。

 

 

まぁ今回に関わらず、文聘が江夏の守りを任されてから、

孫権は勝利を全く得られていないんですけどね。

江夏を守り抜いた忠義の士「文聘」

 

 

 

とりあえず文聘の守る江夏城を落とすことは難しいと考えた孫権は、

 

江夏の石陽に攻め込んで包囲するも、

曹叡に援軍として送られてきた荀禹に後方を掻き乱されたりしてこれも失敗・・・

 

 

ただそんな中で孫奐は鮮于丹に命じて、

魏軍の淮水流域の道を遮断たせたり、

 

孫奐自らは、呉碩・張梁の二人を率いて、

江夏にある高城を落とすことには成功!

 

それも敵将3人を捕らえるというおまけ付きで・・・

 

 

 

孫権はそんな孫奐を見て、

「これまで孫奐は頭の回転が遅く、

気の利かない人物だと思う所があったが、

 

今の孫奐を見てそんな心配は無くなった!!」

と感嘆したといいます。

 

 

そんな孫奐ですが、これらの手柄もあってか、

揚威将軍に任じられ、沙羡侯にも封じられていますね。

石亭の戦い(by周魴の手紙)

江夏侵攻から二年後、

周魴が魏に偽って降伏をしようとした際に、

 

呉方面の総司令官であった曹休を信用させる為に

あることないこと手紙に書きまくったことがありました。

 

 

「周魴から曹休へのラブレター」

と言っても良いほどに何度も何度も手紙を書いたわけです。

 

最終的に曹休は周魴に騙され、

周魴の策に乗せられた形で曹休らは大惨敗を喫します。

 

 

 

この周魴の手紙の中に、

孫奐についての記載もありますので紹介すると、

 

孫奐が孫権から安陸城の修築を任されていることや、

兵糧の搬送を任されたといった内容が書いてあったようです。

 

 

まぁ偽降伏の為の嘘が散りばめられた手紙の内容なので、

十中八九は作り話かなと個人的には思っていますが・・・

 

 

 

まぁ曹休を信じさせないといけないので、

嘘の中にも真実を含ませている可能性も十分にありますし、

 

もしかしたら孫奐の修復や輸送の話は本当だった可能性も普通にありはしますね。

 

 

そんな孫奐ですが、234年に亡くなっています。

 

234年と言えば、献帝が亡くなった年でもありますし、

諸葛亮が亡くなった年でもありますね。

七通のラブレターを送ってまで曹休を信じ込ませた周魴

最後に

孫奐は孫権の言葉からも分かる通り、

普段からのんびりとした人物であったようですが、

 

国の為になる人物を見出す能力に優れていたといいます。

 

 

例えば兄から引き継いだ部下で

劉靖・李允・呉碩・張梁を重用したという話が残っていたりしますし、

 

多くの者達に学問を奨めて勉学に励ませ、

結果として国の為になる人物を数多く輩出したといいます。

 

 

 

このように呉の為に邁進した孫奐でしたが、

息子・娘が幸せな未来を持てなかったのは残念なことだなと思ったりします。

 

 

孫奐の長男であった孫承は、

243年に没して薄命でしたし、

 

二人の娘滕胤と呂拠に嫁いでいるものの、

どちらも孫綝との争いに敗れて殺害され、一族皆殺しにされています。

 

この時に孫封(孫奐の三男)も自殺に追い込まれ・・・

 

 

 

ただ亡き孫奐にとっての唯一の救いは、

 

滕胤に嫁いだ娘だけは、孫壱(孫奐の次男)に救い出されて、

共に魏へ落ち延びたことでしょうね。