陳寿の著した「三国志」の呉志に名が挙がる人物に劉纂りゅうさんという人物がいます。

 

この人物の経歴を見る限り、「只者ではない」とは思いますが、

生涯にかけて謎も多く秘めている人物で、

 

ここでは劉纂がどういった人物で、どんな生涯を送っていったのかを見ていこうと思います。

孫権の娘を二人娶った劉纂

劉纂孫亮伝・呂範伝・孫綝伝に名が登場する人物ですが、

他にも「呉志」妃嬪伝にも登場する人物でもあります。

 

 

「妃嬪伝」は名前からも想像つきますが、

 

現役時代や死後の追号によって、

呉の皇后になった人物が載せられている場所になります。

 

 

「呉志」妃嬪伝が載っているのには理由があり、

 

劉纂は二度にわたって、

孫権の娘を妻として娶っているからですね。

 

一度目は孫権の娘が早世したこともあり、

未亡人になっていた歩夫人の娘であった孫魯育と再婚しています。

 

 

 

最初に嫁いだ女性は、

中女とだけあるのでおそらく次女のことですが、

孫権と歩夫人(歩練師)の間に生まれた孫魯班の後に生まれた娘かもしれません。

 

そして孫魯育が誕生という流れかなと・・・

 

 

 

そもそも歩夫人と孫権の娘である孫魯班・孫魯育以外で、

孫権の娘として生まれた者達の名前は、分かっていない者ばかりですけどね。

 

 

まぁそのあたりの話は置いておいて、この点だけを見るだけでも、

劉纂は相当な名門の出身だった可能性が高いでしょう。

 

でないと、まずありえない婚姻話です。

 

 

孫権が劉纂との関係を非常に大事にしていたことが、

婚姻話から分かるというものですね

劉纂の戦歴

本来であれば名門出身であろう劉纂ですが、

劉纂の名が登場するのは嘉禾四年、

 

つまり235年になります。

 

 

廬陵郡・会稽郡・南海郡の山越族が相次いで反乱を起こすと、

孫権は呂岱に命じてこの討伐に向かわせます。

  • 廬陵郡→李桓と路合の反乱
  • 会稽郡→随春の反乱
  • 南海郡→羅厲の反乱

 

この時に呂岱に従って討伐に向かった中に劉纂もいました。

それ以外には唐咨とかも・・・

 

 

この反乱は会稽郡の随春があっさりと降伏したことで、

雪崩的に鎮圧されていき、この反乱は討伐されてしまうことに・・・

 

 

 

それからしばらく経った255年、

 

寿春で毌丘倹・文欽が、

司馬師に反発する形で大規模な反乱を起こします。

高句麗討伐最大の功労者で、魏への忠誠を貫いた毌丘倹(かんきゅうけん)

 

 

 

しかしこの反乱は司馬師の迅速な対応から翌年には鎮圧されてしまうのですが、

 

独裁政治を行っていた孫峻(皇帝は孫亮)が、

この機に乗じて寿春を手に入れるべく、呂拠に命じて侵攻を開始します。

 

 

そこに合流したのが呉の助けを借りるべく、

呉方面へと撤退していた文欽・文鴦親子だったのですが、

 

寿春が司馬師の手に落ちたことにより、

文欽・文鴦らと共に呉へと撤退していくことに・・・

 

 

 

その翌年の八月になると、

劉纂は文欽・呂拠・朱異・唐咨らと共に、

 

江都から淮水・泗水方面へ侵攻を開始!

 

 

ちなみにこの時の劉纂の役職は、

車騎将軍というかなり上位の役職だったのは余談です。

 

他の者達も高い役職者ばかりでしたけれど・・・

  • 征北大将軍の文欽
  • 驃騎将軍の呂拠
  • 鎮南将軍の朱異
  • 前将軍の唐咨

 

 

 

しかし翌月の九月に孫峻が病死したことにより、

呉軍は撤退しています。

 

そして孫峻亡きあとに実権を握ったのが孫綝でしたが、

呂拠はこれに大きな怒りを感じ、滕胤を誘って反乱計画を企てたのでした。

 

 

しかしこの計画が事前に漏れてしまったことで、

呂拠・滕胤へと討伐軍が結成されてしまうのですが、

 

この討伐軍の一人に任じられたのが劉纂でもありました。

 

 

その結果、滕胤は捕らえられて処刑され、

反乱計画の張本人であった呂拠も自殺に追い込まれています。

 

 

 

ちなみに呂拠は呂範の次男ですが、

あくまで呉国を想っての行動であったのは言うまでもないですね。

 

皇帝の権威が地に落ちていたことに怒りを抱いていての行動だったのですから・・・

 

 

まぁ「勝者が歴史を作る」とはよく言ったもので、

 

敗者にかけられる言葉はなく、

謀反人という不名誉な称号だけが与えられるというのは世の常ですね。

弋陽攻撃に賛同した劉纂

張儼と丁忠が使者として晋へ赴いた266年、

 

張儼は帰国途中に亡くなっていますが、

丁忠は帰国後に晋の領土である弋陽攻撃を孫晧に提案しています。

 

 

そして劉纂が丁忠の考えに賛同したことで、

孫晧も弋陽攻撃をする気になりますが、

 

最終的に陸凱によって反対されたことで、弋陽攻撃は白紙になったのでした。

 

そしてこの記載を最後に、劉纂の名前は歴史舞台から消えることに・・・

 

 

これだけの人物が忽然と歴史舞台から、名前が消えたのはかなり謎でしかないですが、

普通に考えるとこの後に病死などで世を去った可能性も普通にあるでしょうね。

劉纂の一族の可能性のある人物

孫権の娘を二度に渡り娶った劉纂ですが、

劉纂の出生についての事がほとんど分かっていません。

 

一つだけ言えるのは、名門出身であったことだけは間違いないでしょう。

 

 

ここからは私自身の完全な推測によるところですが、

劉纂に関係しそうな一族を可能性のある人物から探っていこうかと・・・

 

 

まず真っ先に候補にあがるのは、揚州刺史で孫策に追いやられて、

最終的に不遇の死を遂げた劉繇の一族でしょう。

 

 

漢王朝の劉氏の一族ですから名門ですし、

劉繇の息子である劉基・劉鑠・劉尚らは呉に仕えていますし・・・

 

普通に考えると、劉繇と近い所の一族と考えるのが自然だと思います。

 

 

ただ劉繇の息子である劉基は、

九卿である大司農や光禄勲に任じられるまでに出世していますが、

 

劉鑠・劉尚に関してはそれほどでもないですし、

劉繇と繋がりがあったとしても、孫権の娘を二人娶るほどと考えると少し弱いかなと思います。

 

 

 

次に私が目を付けたのは、

劉曄と近い所の一族ではないかということです。

 

劉曄は渡り歩いた先に曹操に仕えていますが、

もともとは揚州の阜陵国出身ですから普通に可能性はあると思います。

 

 

劉曄に関しては、

後漢を再興した光武帝の子孫ですし・・・

 

そして光武帝の中でも、

劉延が祖となる阜陵王家の流れなのでかなりの名門です。

 

 

孫権が娘を二度に渡って娶らせ、

役職的には車騎将軍にまで上り詰めていますから、

 

劉曄と近い所である可能性はそれなりに高いのではないでしょうか!?

 

 

 

他に劉姓で可能性のある所を探すならば、

孫皎の臣下に劉靖がいたりしますが、

 

ここはさすがに弱すぎるかなというのが個人的な感想です。

 

 

劉靖については「委廬江劉靖以得失、江夏李允以衆事、

廣陵呉碩・河南張梁以軍旅。」という記載がありますが、

 

「(孫皎が)廬江郡の劉靖に得失を、

江夏郡の李允に衆事を、

 

広陵郡の呉碩と河南郡の張梁には軍旅の事を委ねた。」

といった意味ですが、孫皎が大変に信頼した臣下の一人ですね。

 

 

魏にも廬江太守に任じられたことのある同姓同名の劉靖がいて、

ちょっとややこしいんですが、普通に別人になります。

 

 

 

私自身の中で思い浮かぶ人物としてはこれぐらいになりますが、

この中では劉曄と近い所の一族かなと思ってます。

 

真相は闇の中ですが・・・

孫皎 -優秀な人物でありながら、甘寧に喧嘩を売ったDQN-

書道家の可能性がある劉纂

呉には占い・絵画・書道・囲碁に秀でた、

「江南八絶」という達人がいたのは有名な話ですが、

 

「江南八絶」に数えられた書道の達人に皇象がいたりします。

 

 

この皇象と並び称された人物に劉纂という人物がいるのですが、

おそらくですけど同一人物である可能性が高いかなと思っています。

 

ただの同姓同名の可能性もありますが・・・

 

 

 

他にも同時代の呉の人物として高く評価された人物には、

皇象・劉纂以外にも岑伯然しんはくねん・朱季平がいたりします。

 

このあたりの記載は、

晋の葛洪が著した「抱朴子」の中に書かれています。

 

 

 

もう少し詳細に書くと、

内篇20篇、外篇50篇からなる「抱朴子」ですが、

外篇50篇の中の「譏惑篇」というところにに書かれていますね。

 

 

「皇象・劉纂・岑伯然・朱季平は書の達人であり、

みな一代の絶手であった」と・・・

呉を支えた江南八絶(趙達・劉惇・呉範・厳武・皇象・曹不興・宋寿・鄭嫗)