劉備死後に南蛮の反乱が起こったことは知られていますが、

その発端となったのが雍闓の反乱でした。

 

雍闓の反乱は高定・朱褒・孟獲ら周囲を巻き込んで、

大きなものとなっていきます。

 

 

ここでは反乱の首謀者であった雍闓について見ていこうと思います。

雍闓(ようがい)-雍歯の末裔

雍闓劉邦時代に什邡侯に任じられた雍歯ようしの末裔で、

益州南部で力を持っていた豪族の一人でした。

 

 

雍闓といえば反乱を起こしたことから、

小悪党のようなイメージをどうしても持ってしまいますが、

 

反乱前の雍闓はそのイメージとは裏腹に、

徳が高い人物として益州南部では知られていたようです。

 

これを言い換えれば、

影響力が大きな人物だったということですね。

 

 

 

そんな雍闓に目をつけたのが孫権でした。

 

 

なぜなら関羽の死によって、

劉備と孫権の関係が悪化し、

 

蜀漢の後方を乱す意味でも雍闓に目をつけたという流れでなわけですね。

 

 

そして雍闓は劉備が陸遜に敗れて白帝城で亡くなったことを知ると、

次第に傲慢な態度を取るようになっていき、最終的に反乱を起こしたのでした。

雍歯とはどんな人物?

横山光輝史記(13巻87P・88P)より画像引用

 

雍闓は什邡侯であった雍歯の末裔にあたる人物ですが、

雍歯は劉邦に仕えた人物でした。

 

 

しかし雍歯は劉邦の信頼を裏切って魏に降伏したことがあり、

劉邦に敗れるたびに、他勢力へと逃げ続けていました。

 

 

最終的に再び劉邦に仕えることになりましたが、

 

こういう経緯もあって、

劉邦は雍歯を嫌っていたようでして・・・

 

 

その後項羽を滅ぼして中華統一に成功すると、

論功行賞に大変な時間がかかっていたことで劉邦への不信感が募り、

 

その結果として反乱を企てる者が多くいたといいます。

 

 

ここで劉邦が取った対策は、

「自分が嫌っていると皆が知ってる雍歯を、

あえて什方侯に任じる」というものでした。

※「什方」は成都から比較的近い場所にある地名

 

 

この事に驚いたのは反乱を企てていた者達で、

「嫌われていた雍歯が什方侯に任じられたのであれば、

自分にもきちんと報酬が頂けるな!」

と安心したといいます。

 

 

ちなみにそれから約90年の月日が経った紀元前112年に、

 

それまで引き継がれてきた雍歯の爵位も、

雍桓の息子の時代に爵位を没収されたといいます。

 

 

これにより雍一族は次第に没落していったのでしょうが、

 

それでも周囲への影響力は子々孫々と受け継がれ、

それが三国時代である雍闓の時代まで続いていったのでしょうね。

正昂の殺害×張裔の捕縛

劉備の死を皮切りに孫権側についた雍闓ですが、

孫権から永昌太守に任じられています。

 

雍闓はまず益州太守であった正昂を殺害したのですが、

今度は新たな益州太守として張裔が送られてくることに・・・

 

 

しかしここで雍闓が張裔に対して取った行動は、

張裔と捕縛して呉の孫権へと献上するというものでした。

 

この行動は孫権への忠誠心の証でもあったのでしょう。

 

 

 

ただ益州太守であった正昂を殺害したにも関わらず、

一度張裔を受け入れていることが「張裔伝」に記載が残っています。

 

 

これがどういうことかを説明すると、

「雍闓は巫女を呼んで、

張裔について占わせた」といいます。

 

 

 

張裔について占った巫女は、

 

「張府君(張裔)はひょうたんの壺と同じで、

外見は綺麗な見た目をしているが、内側はお粗末なものである!」

と告げたのですが、

 

雍闓が仕込んでいた巫女だったのは間違いないでしょう。

 

 

そして雍闓は張裔に対して、

「お前は殺すにも値しない人物だ!

呉にでも送り届けてやるわ!!!」

と言って孫権の元へと送ったという流れだったようです。

 

 

ただ太守が殺害されたばかりの益州郡に、

新しい太守を送った中央もどうかしてると思いますが、

 

雍闓が新太守の張裔をわざわざ受け入れたのも不思議だったりしますね。

 

 

張裔は反乱軍の寝床である所に単身送られるわけですから、

 

普通ならば殺される可能性が非常に高いわけですから、

そんな所へ優れた人物を送るというのがまず信じられません。

 

普通ならば討伐軍を真っ先に送るというのが自然な流れでしょうからね。

 

 

また雍闓も雍闓で、益州太守の正昂を殺害しているのに、

次の太守を一度受け入れているというのも・・・

雍闓の反乱×高定・朱褒の呼応

雍闓が蜀漢に反旗を翻すと、

牂柯郡の朱褒、越巂郡の高定も呼応!

 

そしてこの反乱を裏から操っていたのが、

呉の孫権でした。

 

 

これに大きな危機感を抱いたのが諸葛亮であり、

劉備死後の次期皇帝である劉禅を支えるべく動き出したのです。

 

諸葛亮が真っ先に取り掛かったのが孫権との関係修復でした。

 

それが成し遂げられれば、孫権のことを気にせず、

孤立することになるであろう雍闓らの討伐に乗り出していけますからね。

 

 

この時に活躍したのは鄧芝で、

見事に呉との関係修復に成功したのでした。

 

これにより諸葛亮は、南方平定に向けて動き出していくことに・・・

李厳の説得×誇張する雍闓

もともと諸葛亮は、

「言葉で説得できるなら、

なるだけ血を流すことなく解決したい!」

という考えがありました。

 

そこで諸葛亮が頼みとしたのは、

諸葛亮と同様に劉備から後を託された李厳でした。

 

 

 

その様子については、

「呂凱伝」に次のように書かれてあります。

 

李厳は六通の書簡を持って雍闓の説得するも、

雍闓は一度しか返信をしなかったと・・・

 

 

またその内容は調子に乗ったもので、

「天に二日なく、地に二王なしと聞いていた。

 

しかし実際は天下は三つに鼎立しており、

それぞれに暦も違っている!

 

田舎者である私は、この現実に戸惑ってしまい、

誰に帰服したら良いのか解らないのだ・・・」

というものでした。

 

 

そして雍闓は矛を収めることもなく、

永昌郡へと侵攻を開始していくのでした。

 

ただ永昌郡の呂凱・王伉によって抵抗され、

撃退をされてしまうわけですけどね。

評価が高かった割に、活躍らしい活躍がほとんど見られない李厳

諸葛亮の討伐×雍闓の最後

李厳の説得にも応じず、調子に乗った言動を繰り返す雍闓に対して、

孫権と和解した諸葛亮は遂に動き出します。

 

諸葛亮は、

越巂郡で反乱を起こした高定の討伐に向かい、

 

牂牁郡で反乱を起こした朱褒討伐には、

別動隊として馬忠を向かわせました。

 

そして諸葛亮は高定を破り、

馬忠もまた朱褒討伐に見事に成功!

 

 

ただ馬忠よりも先に諸葛亮が高定を破っており、

雍闓の元に逃げ込んでいった高定でしたが、

 

永昌郡奪取の失敗・蜀呉の和解・諸葛亮の南伐の知らせなども相まって、

雍闓は既に蜀に降伏してしまっていたという・・・

 

 

これに大きな怒りを覚えたのが高定であり、

新たな益州太守に任じられた王士ともども雍闓を殺害してしまいます。

 

 

ただ王士が殺害されたのは、

太守に赴任する前に殺されたと記載があるので、

 

おそらく諸葛亮らの先遣隊として向かっていた所で殺された形でしょうね。

 

さすがに諸葛亮らと行動を共にしていたのならば、

高定にあっさりと殺されるのは結構な無理がありますから・・・

高定(高定元) -雍闓の反乱に呼応した叟族の王-

反乱の終着点

雍闓の死をもってしても反乱は終わりを見せず、

 

高定は孟獲を雍闓の後継として戦闘を継続させますが、

孟獲・高定軍は敗北!

 

 

この際に高定は処刑されるも、

 

孟獲は諸葛亮に取り立てられ、

御史中丞にまで出世を果たしています。

「七縦七擒」の名前の由来となった孟獲

 

 

 

また反乱の一角を担った牂牁郡の朱褒も馬忠に敗れていますが、

諸葛亮に許されて正式に太守に任じられたといいます。

 

 

これまでは自称太守として反乱を起こしたにもかかわらず、

 

反乱後は正式に太守に任じられたのですから、

雍闓・高定と比較しても完全に一人だけ勝ち組なわけでして・・・

 

 

 

ただ牂牁郡は馬忠が太守に任じられたとあるので、

普通に考えると矛盾しているという事が言えるのですけどね。

 

 

まぁ朱褒は朱提郡の出身であるとか、

もしくは朱提郡に強い影響力を持っていた人物だとも言われており、

 

その点からも朱提郡の太守に任じられたというのが正式な所なのかもしれません。

 

 

もしそうでなければ、牂牁郡の太守に任じられたけれども、

瞬間的に馬忠に代えられてしまったということになってしまいますからね。