夷陵の戦いで大勝利を収めたのはいわずもがな陸遜ですが、

陸遜の息子にして、呉最後の名将とまで言われた人物がいます。

 

いわずもがな陸抗ですね!!

 

父親である陸遜とはまた違った魅力を持つ人物ですが、

ここでは呉の為に尽くした陸抗の生涯について見ていきたいと思います。

陸抗(りくこう)-陸遜の息子-

陸抗陸遜の次男として誕生していますが、

 

後の世で父親の陸遜と共に、

「武廟六十四将」に選ばれた人物でもあります。

 

 

ちなみに陸遜・陸抗以外に呉から選出されたメンバーは、

周瑜・呂蒙の二名だけになりますね。

 

そんな陸抗ですが、45年に陸遜が不遇の死を迎えると、

陸抗が家督を継ぐ事になります。

 

 

そもそも陸抗には陸延という兄がいましたが、

残念ながら早世してしまっていたという流れから、

 

次男であった陸抗が陸遜の跡を継いだという流れになりますね。

 

また陸抗は建武校尉に任じられ、

父親の軍勢を引き継いで武昌に駐屯することに・・・

 

 

 

陸抗は陸遜の棺を埋葬すべく、

故郷である呉郡へと向かうわけですが、

 

この時に陸抗は孫権がいる建業へ立ち寄って、

孫権から最後まで疑われて亡くなってしまった父親の汚名を晴らしたといいます。

陸抗・諸葛恪の逸話

翌年(246年)になると、

陸抗が立節中郎将に昇進したことで、

 

陸抗は諸葛恪が任されていた柴桑を守ることになるわけですが、

この時の陸抗の性格を物語る逸話が残っていたりします。

 

 

もともと陸抗が駐屯していた陣地

きちんと修復して諸葛恪に引き渡したのに対して、

 

諸葛恪から引き渡された柴桑の陣は、

壊れた所は壊れたままという整備不良の状態で引き渡したといいます。

 

そして陸抗から引き渡された陣地を見た 諸葛恪は、

このことを大変恥じたと伝わっていますね。

孫権の謝罪(父親である陸遜について)

ある時に陸抗は体調不良に陥り、

一時的に建業に戻って療養!

 

そしてそれから少しして、

陸抗の病状が良くなったことで柴桑へと戻ろうとするのですが、

孫権はかつて陸遜へ行ったことへの謝罪の言葉を伝えだといいます。

 

孫権の謝罪の言葉は、

「何度も何度も詰問した当時の書簡が、

もしも残っていれば後世に残すことなく処分して欲しい!」

自分勝手なお願いをしたりするわけですが・・・

 

ただその翌年に孫権が亡くなっていることからも、

自らの死が近いことを察しての言葉だったかもしれませんね。

天下三分の一端を担った孫権(仲謀)

 

 

ちなみに孫権の跡を継いだ孫亮によって、

陸抗は奮威将軍に任命されたりしていますね。

 

 

ただその翌年には、

諸葛恪が誅殺されるという事件が起こります。

 

 

これに大変危機感を抱いたのが、

諸葛恪の姪にあたる女性を嫁に迎えていた陸抗で、

 

陸抗はとばっちりを避ける為に、

嫁と尋常じゃない速度で離婚しています。

諸葛誕の乱

257年に諸葛誕が寿春で反乱を起こしたわけですが、

自分達だけでは魏に抵抗し続けるのは無理な話で、呉に助けを求めにきます。

 

 

そこで孫亮は陸抗を柴桑督に任じ、

諸葛誕を救うべく寿春へと進軍!

 

 

この時の手柄により陸抗は征北将軍に昇進していますが、

結果だけ言うと、諸葛誕の反乱は失敗に終わっています。

司馬一族に反乱を起こした魏の諸葛一族、諸葛誕(しょかつたん)/【諸葛亮=龍、諸葛瑾=虎、諸葛誕=狗】

蜀の滅亡&永安城の戦い

孫亮が廃嫡に追い込まれ、

次期皇帝として孫休が跡目を継ぐこととなります。

 

 

この時に陸抗は荊州地域の総指揮を任されることになるわけですが、

 

それからしばらく経った263年に、

魏によって蜀が滅ぼされる事件が起こってしまいます。

 

 

そこで孫休は少しでも益州領土を削り取ろうと、

歩騭の息子である歩協に永安城を攻めさせます。

 

 

そして歩協に加勢する形で陸抗が三万の兵を率いて攻め立てますが、

羅憲は半年間に渡って城を守り続けたのでした。

 

最終的に落とすことが不可能だと悟った陸抗らは撤退しています。

 

まぁ撤退を決断したきっかけは、胡烈が援軍として派遣されてきたからですね。

蜀漢最後の意地を見せつけた永安の守護神、羅憲

 

272年8月の頃には歩騭の長男であった歩協が亡くなったことで、

弟にあたる歩闡が継承していました。

 

しかし孫晧が歩闡を繞帳督に任じて中央へ呼び戻そうとすると、

誅殺を恐れて歩闡は反乱を起こします。

 

 

ただ歩闡単独では明らかに限界があるので、

 

兄の息子である歩璣・歩璿を

司馬炎の元へと送って援軍を要請したわけですが、

 

司馬炎はこれを喜び、

歩闡を全力でサポート!

 

 

また歩闡が籠る西陵城は、

重要拠点として陸抗自身が強化した城でもあったのです。

 

その城に歩闡が籠るわけで、簡単に城が陥落するわけもなく・・・

 

 

そして司馬炎は羊祜・楊肇らを派遣するものの、

陸抗に敗北!

 

 

これにより実質決着がつき、

歩闡も力尽きて西陵城は雒城してしまいます。

 

これにより歩闡の一族は根絶やしにされてしまうことに・・・

 

 

西陵城を陥落させるといった大きな手柄を立てた陸抗ですが、

それを威張ることも誇ることもなかったといいます。

滅亡への歩みを進めた歩騭の息子達(歩協・歩闡)

 

 

 

陸抗は、西陵の戦いの手柄もあり、

大司馬・荊州牧に任じらることとなりますが、

 

翌年(274)には重い病にかかってしまい、回復することなく亡くなってしまいます。

 

 

 

陳寿は陸抗について次のように評価しています。

「先見の明を持った優れた人物であった」と・・・

 

 

また東晋の何充

「陸抗が生きていたからこそ呉は延命し、

陸抗が亡くなってしまったから呉は滅んでしまった!」

とまで陸抗を高く評価しています。

羊祜と陸抗の有名な逸話

晋の将軍であった羊祜呉の将軍であった陸抗は、

互いに敵同士ではありましたが、次のような逸話が残っています。

 

 

羊祜は陸抗を、

陸抗は羊祜を高く評価していたようで、

 

ある時に羊祜が陸抗にを送り、

また一方で陸抗が羊祜にを送ったこともありました。

 

 

敵からの贈り物に対して、

周りは捨てた方が良いと提案するものの、

 

二人は相手を疑うことなく飲んだといいます。

 

 

 

またお互い国境の守りを任されていた者同士でしたが、

必要がない争いは避けており、

 

陸抗は「相手が徳のある行動をしているのだから、

こちらも徳のある行動をしなければ、

結果は見えている!」と羊祜を真似て善政を敷きます。

 

 

そして両者の行った善政のお陰で、

 

荊州では食糧が放置されていたとしても、

誰も盗まなかったといいます。

 

 

また家畜が国境を越えて逃げることがあっても、

 

敵国(魏or呉)に知らせると、

その家畜がわざわざ返還されるほど平和だったといいます。

 

 

 

ただこれは陸抗伝の話であって、

羊祜伝では普通に抗戦があっていたというふうに書かれているんですけどね(笑)

 

 

ただ普通の戦いと大きく違ったのは、

戦うにしても謀略を巡らして不意をつくといったものではなく、

 

期日を定めて正々堂々と真正面から戦うというものだったといいます。

 

 

その上で羊祜と陸抗の戦いは、

羊祜が若干優勢だったとか・・・

 

 

この話は孫晧の耳にも入り、

陸抗は孫晧によって詰問されることとなりますが、

 

陸抗はどうどうたる態度で、

「一つの邑一つの郷においてでさえ信義を大切にする人物が必ず必要です。

ましてや大国である呉なら尚更です。

 

もし呉がそれを怠れば、それは単純に晋の徳を褒めるだけの話で、

それこそ羊祜の思うつぼです。

と孫晧の疑いを真っ向から否定!!

 

 

 

孫晧もそれ以上に陸抗を詰めることはなく、

亡くなる最後の時まで、陸抗に荊州の守りを任せ続けていますね。

 

むしろ陸抗は孫晧に詰問されてから少し後に、

大司馬・荊州牧に任じられて昇進もしています。

 

 

三国志演義では疑いを持った孫晧によって左遷させられ、

羊祜は「今こそ呉を討つチャンスだ!」と上奏しているわけですが・・・

 

 

兎にも角にもここで生まれたのが。

「羊陸之交(羊陸の交わり)」

という言葉になりますね。

 

 

 

この話も慎重に深堀りすれば、それほど簡単な話じゃないと思いますけど、

一般的には羊祜と陸抗の関係はそういった感じで言われています。

 

 

実際は他にも「羊陸之交(羊陸の交わり)」だけではなく、

羊祜通和ようこつうわ」「陸抗嘗薬りくこうしょうやく

と言った言葉もあったりしますね。