龐統(士元/ほうとう)

龐統といえば「鳳雛」と称えられ、

同じクラス「伏龍」と称えられた諸葛亮と並び称された人物です。

 

 

龐統は荊州襄陽郡の出身で、後に高く評価される人物ですが、

 

若かりし頃の龐統は、

風貌も良くなかったこと等も影響して、

あまり周りから評価される事はなかったようです。

 

 

 

そんな龐統でしたが、

司馬徽との出会い転機を迎えることとなります。

 

司馬徽は龐統と語る中で、

龐統の才能を非常に高く評価しています。

 

司馬徽の名は既に広く知れ渡っていましたから、

これによって龐統の名が広がるきっかけになったというわけですね。

龐統と周瑜

その後の龐統は、

郡の功曹に任じられることになります。

 

また次第に龐統の人脈も広がり、

赤壁の戦い後の荊州侵攻戦では、周瑜に付き従ってますね。

 

 

苦戦しながらも曹仁より江陵を奪う事に成功した周瑜は、

南郡太守に任じられ、

 

龐統を南郡の功曹に抜擢されることに・・・

 

 

そして周瑜は「天下二分の計」を引っさげて、

益州へと進攻を開始しようとした矢先に、戦いの中で受けた傷が元で亡くなってしまいます。

 

この時に周瑜の棺を孫権がいる建業へと持ち帰ったのが龐統で、

孫権は周瑜の柩を蕪湖まで出迎えただけでなく、葬儀の全額を負担したといいます。

 

 

 

そして龐統が再び荊州へと戻ろうとした際には、

多くの者達が見送りにやってきました。

 

「呉の四姓」であった陸績・顧邵もその中の二人であったようです。

呉の四姓(顧氏・陸氏・朱氏・張氏)

劉備から絶大な信頼を得る

周瑜が死んだ事で、内心ほくそ笑んだのが劉備なわけで、

「天下三分の計」を実現の可能性が出てきたからですね。

 

周瑜が益州に攻め込んでいれば、高い確率で奪っていたでしょうから、

劉備が掲げる「天下三分の計」は夢幻に・・・

 

 

劉備は龐統に耒陽らいようの令を代行させたのですが、

その仕事ぶりはだいぶ酷かったようで、免官させられるほどだったといいます。

 

 

 

ここで龐統を弁護したのが魯粛や諸葛亮だったわけですが、

 

劉備は龐統と真正面から語り合い、

それで龐統の優れた才能に気づいたと言われていますね。

 

 

それからというもの、劉備の龐統に対する信頼度は、

並々ならぬものに・・・

 

 

まぁそれが形としてよくわかるのが、

諸葛亮と同様の軍師中郎将に任じられた事でしょう。

 

このあたりの話は、横山光輝の三国志にも軽く描かれています。

まぁ横山光輝の三国志では、副軍師中郎将となってますけどね。

横山光輝三国志(30巻164P)より画像引用

劉備の入蜀

劉備「天下三分の計」を実現すべく、

劉璋からの誘いを利用して益州へ赴くことを決意!!

 

この時に龐統も劉備に付き従って入蜀していますね。

 

 

まぁ劉璋から誘いがあったのにはきちんとした裏事情があり、

劉璋配下であった張松・法正・孟達らが劉璋を見限っていたからなのですが、

 

益州にも曹操や張魯の危険が及び始めた時期で、

目先の敵として張魯を討伐してもらう為に劉備を招くという流れに三人はもっていったのです。

 

これに劉璋も賛成したという感じですね。

 

 

 

そして劉備が入蜀すると、

劉璋は劉備を招いて宴会を催し、

 

この機会に龐統は劉璋殺害を劉備に進言するも、

劉備は華麗にスルーしてしまったのです。

天下三分の計

龐統の最後

劉璋殺害をスルーした劉備は、

もともとの入蜀の目的だった張魯討伐に向かいます。

 

しかし曹操と孫権の間で戦争が勃発すると、

孫権への援軍名目で兵を動かしやすくなったことから、

 

この時に目付け役ともいえる高沛・楊懐の二人を殺害し、

成都に向けて兵を進めます。

 

また荊州に残っていた諸葛亮・張飛・趙雲らにも

益州へ入るように指示が飛んだことで益州の郡県攻略に動き出すことになります。

 

 

 

劉備は涪城・綿竹攻略と順調でしたが、

雒城を守る張任らが激しい抵抗をしてきた為に苦戦を強いられてしまいます。

 

一年にも及んだ雒城での戦いの中で、

流れ矢で龐統は亡くなってしまったのでした。

その後の余談

龐統は不運の死を遂げてしまいますが、

その後に劉備は雒城攻略に成功し、

 

劉璋が籠る成都へと劉備は兵を進めています。

 

 

 

これに諸葛亮・張飛・趙雲らが劉備軍に合流し、

「錦馬超」として知られた馬超までもが劉備陣営に加わり、

 

 

最終的に劉璋が降伏したことで、劉備は益州奪取を成功させ、

「天下三分の計」を実現させたのでした!!

 

 

 

歴史に「もしも!?」なんてことはありませんが、

龐統の益州獲得後の活躍を見たい人物であったことは間違いないですね。

 

もしかすると龐統が生きていたことで、

諸葛亮自らが北伐をする未来はなかったかもしれません。

 

 

そんな龐統について陳寿は次のように評価しています。

人物鑑定・謀略を得意とし、

曹操の参謀であった荀彧と匹敵するほどの人物であったと高い評価を受けています。

 

それと同時に早くに亡くなってしまった事が残念であった」と・・・。

余談(龐統の逸話)

龐統は人物鑑定が好きであったようで、

見てあげた人に対して能力以上の評価をくだしていました。

 

それを不思議がった人物が、その理由を龐統に尋ねたことがあったそうです。

「何故に過大評価ばかりされているのですか!?」と・・・

 

 

そう尋ねられた龐統は、

「世の中は乱れに乱れ、世の中には悪人がはびこっている!

 

そんな世の中だからこそ大げさなぐらいに褒めてやられば、

善道を行う者は増えないだろう。

 

 

また私が褒める事で、もしもそいつが志高い考えを持った人物であったならば、

その人物は更なる努力をするだろう!!

 

だから私は誰にでも能力以上の高い評価をしているのだよ。」

と答えたといった逸話が今に伝わっていたりします。