若かりし頃の吾彦(ごげん)

吾彦揚州呉郡呉県の寒門出身ではありましたが、

 

身長は八尺(約192cm、一尺≒24cm)の長身で、

文武に優れた人物でした。

 

 

また剛腕の持ち主であり、猛獣と素手で戦った事もあったという、

曹彰のような逸話も残っている人物になります。

 

ちなみに三国時代も終わりを迎えようとしていた時代の人物であり、

「呉書」ではなく、「晋書」に個人伝がある人物になりますね。

 

 

呉に仕えた当初は通江吏に任じられていますが、

元々蜀将であった霍弋(この頃は晋の将軍)は交阯太守の楊稷・九真太守の董元らを派遣し、

呉の交州領地へと攻めさせたことがありました。

 

 

これに対して孫晧は交州刺史の劉俊・荊州刺史の顧容を派遣して対応するも、

徹底的に打ち破られてしまっただけでなく、

 

この戦いで修則は大都督(前部督)に任じられて派遣されていた修則であったり、

交州刺史であった劉俊は討死してしまいます。

 

 

そこで建衡元年(269年11月)に、孫晧は新たに虞汜を監軍、陶璜を蒼梧太守に任じ、

薛珝せつくを威南将軍・大都督に任じて派遣したといいます。

 

しかし結局は呉の軍勢は敗れてしまい、

呉領であった交州の交阯郡・九真郡・日南郡の三郡は、晋の支配下になってしまいます。

 

 

ただこの中の薛珝が交州へ旅立つ姿に大きく感銘を受け、

大きな憧れを抱いた人物が吾彦でもありました。

 

 

そんな吾彦に対して、人相見であった劉札が、

 

「貴方の人相を見る限り、

いずれ薛珝殿と同様の地位にまで上る事ができますよ。」

と言われたという逸話が残っていたりします。

陸抗に認められた吾彦

まだまだこれといった実績もなかった吾彦に対して注目した人物がいました。

それは呉末期を大きく支えた陸遜の息子である陸抗になります。

 

陸抗は吾彦の勇猛さと才能を高く評価し、

抜擢しようとしますが、周りから反対される事を懸念し、事前に一計を案じたといいます。

 

 

ある時に宴席を設け、

密かに狂人の演技をする者を忍び込ませていました。

 

 

そして宴席で剣を抜いた狂人の姿を見た参加者の多くが、

その場から逃げ去ったのに対して、

 

吾彦だけは逃げ出すこともなく、その場に合った机を利用して抵抗したのでした。

 

 

この姿を見た陸抗は、「吾彦が思った通りの人物である」と判断し、

陸抗から直々に抜擢される事となります。

 

それからしばらくすると、吾彦は将軍に任じられ、

建平郡の太守を任されるまでに出世していったのでした。

陸抗 -「武廟六十四将」に数えられた陸遜の次男-

王濬の目論見を予測

鳳凰元年(272年)に入ると、

益州刺史を務めていた王濬が呉征伐の計画を立てており、

 

長江を一気に下る為に多くの軍船を造船したのでした。

 

 

しかしこれにより、

多くの木屑が長江下流へと流れてくることになります。

 

呉に住む多くの者達が、この事に対して気にすることもなかったわけですが、

吾彦だけが多くの木屑が流れてきている現状に大きな危機感を抱きます。

 

 

 

そして吾彦は孫晧に対して、

「晋は呉討伐の計画を立てているのは確実です。

 

その為の対策として、建平郡の守備兵を増兵すべきかと存じます。

 

建平郡はそれだけ重要な土地であり、もし晋軍が建平郡を落とせないようなら、

無理して長江を渡ってくることもないでしょう」

と進言しますが、孫晧が吾彦の言葉に耳を傾けることはありませんでした。

 

 

ただ吾彦は今の現状が非常に危険だ」という事を察していただけに、

吾彦は全ての責任を背負う形で、呉国の為に独断で長江に鎖を張り巡らします。

 

これにより船の航路を遮断して、晋軍の侵攻に備えたわけですね。

 

 

 

また歩騭の息子であった歩闡ほせんは、

「西陵督」として西陵城を任されていましたが、

 

孫晧の誅殺を恐れて反乱を起こして、反旗を翻す形で晋に降ってしまいます。

 

 

この討伐を任されたのが陸抗でしたが、

吾彦は陸抗指揮下の下で活躍し、西陵城を落とす事に成功したりもしています。

呉滅亡時まで城を守り通した吾彦

 

歩闡の反乱から約七年の月日が過ぎた279年、

晋は呉討伐に本気で乗り出してきます。

 

この侵略はかつて羊祜が計画した案が採用されており、

「六方面から攻め込む」というものでした。

 

 

これに対して呉の各地で敗戦が続いていく中にあって、

吾彦は徹底的に晋軍に対して奮戦しています。

 

そして吾彦の獅子奮迅の戦いぶりに、晋軍は三十里後退・・・

 

 

そんな中で呉の首都であった建業にまで攻め込まれ、

孫晧が降伏したことで呉が滅亡し、晋の中華統一が成し遂げられる事となったのでした。

 

 

呉最後の丞相であった張悌の最期の見せ場があったりはしますが、

吾彦はその中にあって最後の最後まで任された城を守り通したわけですね。

 

そして孫晧が晋に降った事が吾彦の耳にまで届くと、それをもって吾彦も抵抗する事をやめて降っています。

晋の統治下のもとで活躍した吾彦

晋に降ってからの吾彦は、

金城太守・敦煌太守・雁門太守などの辺境郡を歴任し、

 

「各地域での統治は恩恵が行き届き、

その威光が轟く程に非常に優れたものだった」といいます。

 

 

その後に吾彦は、司馬暢の下で内史を務めることとなりますが、

 

司馬暢は身勝手な人物としても知られており、

多くの内史が次々に誣告されて処刑されていました。

 

 

ちなみに「誣告」とは、簡単に言ってしまうと、

噓の報告で相手を罰するといったような感じになりますね。

 

そんな中にあって吾彦は、清潔公正に職務に励んだだけでなく、

部下の育成にも励み、法も厳粛に守った結果、人々は吾彦を畏怖したといいます。

 

 

司馬暢も例外ではなく、吾彦を誣告する事ができなかったばかりか、

やりにくい事この上なかったこともあり、

 

「上職に推薦する形で自らの下から遠ざけた」という逸話が残っています。

 

これにより吾彦は、散騎常侍に任じらる事になったのでした。

 

 

太熙元年(290年)になると、

吾彦同様に呉で活躍し、交州刺史であった陶璜とうこうが亡くなると、

その後釜を任される形で南中都督・交州刺史に就任しています。

 

また陶璜亡き後に交州九真郡で反乱が勃発していましたが、

吾彦は任地に赴くと、なんなく反乱討伐を成し遂げています。

 

そこから二十年近くにわたって交州統治に尽力していますが、

その後に病気の為なのかどうかは不明ですが、吾彦は自ら上表する形で他者と職務交代を願い出ていますね。

 

 

吾彦の申請が認められると、中央へと呼び戻され、

大長秋に任じられたと記録は綴っています。

 

 

ちなみに大長秋はもともと宦官の最高位にあたる役職です。

そして大長秋になった人物として有名なのは、曹操の祖父である曹騰になりますね。

 

 

ただ吾彦に息子がいた事も分かっていますし、宦官になったという記録も別にない事からも、

 

もしかしたら大長秋になれる者の条件が、

この時代は変化していた可能性があるのかもしれません。

吾彦と司馬炎の逸話

武帝がかつて呉に仕えていた薛瑩と吾彦に対して、

次の質問をしたことがありました。

「呉は何故ゆえに滅亡したのか!?」と・・・

 

これに対してまず薛瑩が、

「呉が滅んだ原因は孫晧の悪政が原因でした。」と返答したわけです。

 

 

一方の吾彦の返答は薛瑩と違うもので、

「孫晧様は英俊な人物であり、

宰相もみな賢明な人物でありました。」

と孫晧の治世を褒めたのでした。

 

 

これに対して司馬炎は微笑みながら、

「君主と臣下の双方ともが賢明であったならば、

何故に国は滅んだのであろうか!?」

と更に吾彦に問いかけると、

 

「天運には限りがあり、その為に陛下に捕らわれてしまったのです。

これは天命であり、人知が及ぶものではございません。」と返したのでした。

 

 

そうするとその場に同座していた張華が、

「貴方は長らく呉の将軍として年月を重ねたそうだが、

貴方の評判が私の耳に入る事はなかった。

 

なんとも不思議なことではないか!?」と問いかけます。

 

 

吾彦は張華の問いに対して、

「陛下ですら私をご存じだったというのに、

貴方様はご存じなかたのですね。」

と返し、司馬炎は吾彦の事を非常に高く評価したといいます。

吾彦と陸機・陸運の逸話

かつて吾彦は陸抗に抜擢された事があり、世話になった人物であった。

 

そんな陸抗とである陸喜(陸遜の実弟である陸瑁の息子)について、

司馬炎が吾彦に対して尋ねた事がありました。

 

 

これに対して吾彦は、

「人徳や名声においては陸抗殿は陸喜殿には及びません。

 

一方で実績の面をみると、

陸喜殿が陸抗殿に及ぶことはありません。」

と二人をそれぞれに評価した返事をします。

 

 

この話を聞いて腹を立てたのが、陸抗の息子である陸機と陸雲で、

二人は吾彦からの贈り物を拒否するだけでなく、吾彦の悪口を口にするようになっていきます。

 

「吾彦の人となり」を表すような逸話の一つでもあるけれども、

同時に「陸機・陸運の人となり」を表す逸話でもあるかなと思いますね。

 

 

ただこの話にはまだ続きもあり、

尹虞が陸機・陸運に対して、次のように注意を促した逸話が残っています。

「昔から卑しい身から成りあがった者には帝王すら存在する。

たかが公卿の立場がどうだと言うのだ!

 

 

何元幹・侯孝明・唐儒宗・張義允らは卑しい所から身を起こし、

後に国の重鎮にまで昇り詰めているが、

 

彼らの中に貴方達のように悪口を言っている者はいなかった。

 

 

貴方達は吾彦殿が父親への褒める言葉が少なかった程度で、

悪口を巻き散らかしておられる。

 

そんな貴方達を見てると、

いつか味方が誰もいなくなるのではないかと私は心配している。」

 

尹虞の言葉を聞いた陸機・陸運は、次第に吾彦への不満は薄れていったといいます。

 

 

また二人の後日談ではありますが、吾彦がひっそりと天寿を全うしたのに対して、

陸機・陸雲の二人は八王の乱に巻き込まれる形で303年に非業の最期を遂げています。

 

この時に同じく陸抗の末弟であった陸耽も連座の罪で処刑されており、

これにより陸遜の直系子孫は絶える事となったのでした。

 

 

また三国志に注釈を加えた裴松之は、

「陸遜の血脈が途絶えたのは全て陸遜のせいだ!」

と陸遜が明らかに嫌いだったのかと思う程の理不尽な評価を残しているのは余談でもあります。