軍事面で才能を発揮した向寵
向寵の父親や母親については何も分かっていませんが、
叔父に向朗がおり、弟の尚充がいた事は分かっていたりします。
向寵は向朗・向充と同様に荊州襄陽郡宜城県出身の人物になりますが、
記載がほとんど残っていないことから謎が多い人物でもあります。
向寵についての記載は、「蜀志」向朗伝の中に加えられる形で、
向寵伝が書かれてありますが、非常に内容的には薄いものとなっています。
向寵は劉備に仕え、牙門将に任じられた人物であり、
劉備が東征を開始すると、これに従って夷陵の戦いに参加しています。
ただ夷陵の戦いは劉備軍の惨敗で幕を下ろすわけですが、
退却する事すらままならない中にあって、向寵が守る陣が崩される事はなかったといいます。
指揮官であった馮習しかり、
補佐を任された張南でさえ討死している中で、
「敵の攻撃を防ぎ切った」という点だけ見ても、
向寵の軍事面での高い才能をうかがわせる逸話となっていますね。
それから約八カ月後に劉備が亡くなって劉禅が後を継ぐと、
都亭侯に封じられ、後に中部督となって近衛兵を指揮したようです。
ちなみに劉備の時代の元号は「章武」でしたが、
劉禅の時代になってから「建興」と改められているのは、完全に余談だったりします。
「出師表」で絶賛された向寵
横山光輝三国志(49巻175P)より画像引用
諸葛亮が第一次北伐を開始した建興五年(227年)の際に、
「出師表」を劉禅に上奏してから出陣していますが、
その「出師表」の中には向寵の事も記載されており、軍事面で絶賛されていたりします。
侍中侍郞郭攸之費禕董允等 此皆良実 志慮忠純
是以先帝簡拔以遺陛下
愚以為宮中之事 事無大小 悉以咨之 然後施行
必能裨補闕漏 有所広益
将軍向寵 性行淑均 曉暢軍事
試用之於昔日 先帝弥之曰
能是以衆議挙寵為督
愚以為営中之事 事無大小 悉以咨之
必能使行陣和睦 優劣得所也
簡単に言ってしまうと、前半部分は、
「宮中の事は郭攸之・費禕・董允らに全て任せよ」
といった内容であり、
後半の橙色で塗った部分に向寵の事が記載されており、
「向寵の軍事面を称賛するとともに、
もしも困った事があれば向寵に全て任せよ」
といった内容が書かれてありますね。
こういったふうに非常に高い評価を受けた向寵ですが、
その後に中領軍に昇進するも、
240年(延熙三年)に、
漢嘉郡の異民族討伐の最中に殺害されてしまうのでした。
軍事面で高い評価を受けていた向寵ですが、
最期は向寵らしくないような最期を迎えてしまったのが惜しまれますね。
「出師表」(向寵についての部分の原文&書き下し文&翻訳)
ただ折角なので、最後に「出師表」にある向寵に関する部分の書き下し文、
そしてその翻訳も併せて紹介しておこうと思います。
将軍向寵 性行淑均 曉暢軍事
「将軍の向寵は性行淑均にして、軍事に暁暢せり。」 将軍である向寵は穏やかな性格をしており、 誠実な人物であるだけではなく、軍事にも精通している人物です。
試用之於昔日 先帝弥之曰 「昔日に試用せられ、先帝これを称して能と曰う。」 かつて先帝が向寵を用い、有能な人物であると仰られました。
能是以衆議挙寵為督 「是を以て衆議は寵を挙げて以て督と為せり。」 だからこそ満場一致で向寵は中部督に任じられたのであります。
愚以為営中之事 事無大小 悉以咨之 「愚以為えらく宮中の事は、事大小と無く、悉く以て之に咨らば、」 私が思うに宮中の軍事に関する事は、大小に関わらずに全て彼に相談すれば、
必能使行陣和睦 優劣得所也 「必ず能く行陣をして和睦し、優劣所を得しめん。」 軍の統率は上昇し、適材適所に応じた配置を行ってくれることでしょう。 |