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夏侯纂の「三顧の礼(秦宓)」
寺島優&李志清三国志(文庫本7巻10P)より画像引用
夏侯纂は、「夏侯」の姓を持ちながら劉備に仕えた人物ですが、
劉備が益州奪取に成功した後に広漢太守を任された人物になります。
そんな 夏侯纂ですが個人伝も残されておらず、非常に限られた情報の人物になります。
ただ他の列伝に登場したりしている事からも、
記録が非常に少ない蜀内の記録の中にあって、そこそこに情報が残っている人物でもあるといえます。
「蜀志」秦宓伝に 夏侯纂と秦宓のことが記載として残されていますが、
他には「太平寰宇記」巻七十三(漢州徳陽県条)に
次のような 夏侯纂の「三顧の礼」を行った事が記録として残されています。
三造亭秦子勅之宅也。
(三造亭は秦宓の邸宅である。)
太守夏侯纂三造門故以為名。 (太守の 夏侯纂が三度にわたり家門を叩いた事でこの名がついたのである。)
按其宅綿水衝毀僅有餘跡。 (その邸宅も綿水によって浸食され、今ではわずかに跡が残るだけである。) |
夏侯纂について
三顧の礼を行った 夏侯纂ですが、まず最初に述べておくと、
夏侯纂についての人となりは、ほとんど分かっていないのが実情になります。
「豫州牧時代から劉備に仕えていた可能性が高い」
と一般的にされている人物でもあります。
ただその根拠となる資料を私自身の目で拝見した事がないので、
実際にどうだったのかは現在の所は不明です。
火のない所に煙は起こりませんから、
どこかしらにその資料はあるのではないかと思ってもいますが、
現在の所は見つけられていません。
ただ益州の人物でないことは、残されている記録からも大体の推測が可能ですし、
実際に豫州時代から劉備に仕えていたとすれば、
劉備が諸葛亮を迎えた三顧の礼の話を知っていて当然だと思われますし、
劉備を真似て秦宓を迎えようとした可能性は十二分にあるでしょう。
また豫州まで遡れなかったとしても、
荊州の時点で仕えてたとしても、劉備の三顧の礼の話は知っていたと考える方が自然ですが・・・
ちなみに劉備が豫州牧に任じられたのは、
呂布に徐州を追われた辺りの時期になります。
そして 夏侯纂が三顧の礼を尽くした秦宓は、
かつて劉璋に仕える事も拒んだ人物でもあるわけですが、
後に諸葛亮に高く評価されて、
丞相府に別駕従事として招かれた人物でもあります。
「蜀志」秦宓伝に残る記録( 夏侯纂&秦宓)
劉備より広漢太守に任じられた夏侯纂は、
秦宓を招聘して師友祭酒とし、同時に五官掾も兼ねて任じています。
しかし秦宓は 夏侯纂の招聘に応じる様子はなく、
「病気と称して自宅で臥せていた」といいます。
そこで 夏侯纂は三度に渡って秦宓邸(三造亭)を尋ねたのでしょう。
そしておそらく三度目に訪れた際に、
古朴(功曹)と王普(主簿)を連れて、食膳を持って秦宓に会ったのだと思います。
夏侯纂が訪れた際に、 秦宓は横に臥せている状態でしたが、
夏侯纂はお構いなしに古朴に対して次のように問いかけています。
「益州で産出される生活必需品は、他州と比較しても優れているが、
士人については他州と比較してどうだろうか?」 |
それに対して古朴は次のように答えます。
「漢王朝が誕生して以来、
爵位についた者は他州には及ばないでしょう。
しかし書物を著したりで、 世の中の手本となった者という意味では、他州に負けておりません。」 |
続けて 夏侯纂は、
「仲父はどう思われますか!?」
と秦宓に対して問いかけます。
問いかけられた秦宓は帳面で頬を叩きながら次のように答えます。
「私のような田舎者を仲父などと仰らないでください。
ただ 夏侯纂殿の為に蜀(益州)の大まかな歴史について御説明しようと思います。
蜀には汶阜の山岳があり、 そこから流れ出る長江のお陰で、肥沃な土地が広がっております。
中華の地には四瀆(淮水・済水・長江・黄河)がありますが、 長江はその筆頭的な大河といえるでしょう。
また石紐(益州汶山郡)で誕生した禹が、 かつては堯が大洪水にあい、鯀が失敗した治水工事を、 黄河の水を長江に通す事で成功させ、多くの民衆を救いました。
人類創生よりこの功績を上回る者はないといっていいでしょう。
最期に天帝は房宿・心宿(さそり座)の動きを見て政治を敷き 参宿・伐宿(オリオン座)で政策を決定しておりました。
ちなみにこの参宿・伐宿は、益州のことになります。
また三皇(燧人・伏羲・神農)が祗車に乗って出たという谷口は、 現在でいいうところの斜谷にあたります。
益州の地勢はこのようなものですが、 夏侯纂殿は中華全土と比較してどう思われますか!?」 |
この秦宓の言葉に対して、 夏侯纂は何も返す事ができなかったといいます。
三顧の礼を尽くしたにも関わらず、
劉備が諸葛亮を射止めたように成功できなかったようです。
ただ「蜀志」秦宓伝では、
その後に劉備に招聘されて、あっさりと仕えているのは余談になります。
そのように省略された記載しか残されておりませんので、
詳しい事は現在に伝わっていませんが、
記載が残っていないだけで失敗としていますが、
夏侯纂が説得にある程度成功していた可能性も一応にあるとは思っています。
その場合は、その後に劉備の招聘に応じたという形にですね。
後に劉備が崩御し、諸葛亮が丞相府を開府した際に、
別駕従事として招かれて諸葛亮の側近として活躍するも、
それから三年後にあたる建興四年(226年)に亡くなっています。
三国時代にも用いられた「二十八宿(星座)」とは?
秦宓の言葉には正座を使った難しい言葉が並んだりしていますので、
この時代に用いられていた「二十八宿(正座)」について、簡単に説明したいと思います。
全く分からないより最低限でも必要な知識があった方が、
なんとなくでも理解がしやすいとも思いますからね。
房宿・心宿・参宿というのは、
黄道付近にある星座を定めた「二十八宿」の中の星座になります。
〈二十八宿〉
角宿・亢宿・氏宿・房宿・心宿・尾宿・箕宿・斗宿・牛宿・女宿・
虚宿・危宿・室宿・壁宿・奎宿・婁宿・胃宿・昴宿・畢宿・觜宿・
参宿・井宿・鬼宿・柳宿・星宿・張宿・翼宿・軫宿
また伐宿に関しては、参宿の中の七つの星官のうちの一つになります。
参・伐・玉井・軍井・屏・厠・屎
そうした場合に房宿・心宿がさそり座、
参宿・伐宿がオリオン座となる感じですね。
また古今図書集成(參宿圖)に、
次の画像がありますので参考までに載せておきたいと思います。
房宿・心宿・参宿・伐宿(実際に三国時代の人物も見たであろう星座)
(https://stella.toxsoft.com/index.htmlより房宿・心宿・参宿の画像参照&引用)
「仲父」とは!?
横山光輝史記(1巻90P・91P)より画像引用
「仲父」の呼び名は、
斉の桓公が管仲を尊んで「仲父」と呼んだことに始まりますが、
尊敬する目上の人に使われたりしていますね。
一番有名なのは秦の始皇帝(嬴政)でしょう。
嬴政は大恩ある呂不韋に対して「仲父」と呼んでいました。
他には項羽が范増を「亜父」と呼んでいたのは有名な話ですが、
「亜」は次・二番手といったような意味があり、「父の次にあたる人物」という意味で、
これも仲父と同じ意味になりますね。
ちなみに陳寿の「三国志」に注釈を加えた裴松之には、
裴駰という息子がいましたが、
裴駰が著した「史記集解(「史記」の注釈書)」には次のように書かれてあります。
「亜次也。尊敬之次父。猶管仲為仲父。」
これは「父親の次に尊敬する者で、
管仲の仲父と同じ意味である。」と解釈できますね。