白波(しらなみ)
日本でもお酒の名前としても耳にする白波ですが、
もともとの語源は中国の後漢末期の頃にまでさかのぼります。
184年に張角率いる黄巾賊が反乱を起こしたことで知られていますが、
黄巾賊が鎮圧された後も、各地で黄巾賊の残党は残り続ける事となります。
その中でも一番有名なのが後に曹操によって吸収された青州黄巾賊がその筆頭でしょう。
この時に白波谷に籠って略奪を働いていた黄巾賊の残党を白波賊と呼んだことにはじまります。
白波に盗賊や山賊といった悪い意味合いが含まれているのはそういう理由になります。
これらのことは「後漢書」霊帝紀に記録が残されています。
黃巾餘賊郭太等起於西河白波谷寇太原河東
(中平五年(188年))黄巾余賊の郭太らが西河郡の白波谷で挙兵し、太原郡や河東郡に侵攻した。 |
九月南單于叛與白波賊寇河東
遣中郎將孟益率騎都尉公孫瓚討漁陽賊張純等
(中平五年(188年))九月に南単于が叛き、白波賊とともに河東郡に侵攻した。 中郎将であった孟益に騎都尉の公孫瓚を率いさせて、漁陽郡の賊の張純らを討たせた。
※ちなみに霊帝紀にあるこの記載内容ですが、 中平五年(188年)ではなく、中平六年(189年)の霊帝崩御後とされる説もあります。 |
ちなみに白波谷とは并州西河郡にある谷であり、
并州出身として有名な人物と言えば間違いなく呂布でしょう。
その呂布ですが并州の五原郡の出身なので、西河郡とは隣同士の郡にあたります。
白波賊の出身者達(韓暹・楊奉・李楽・胡才)
白波賊の出身者として有名な人物を挙げるとすれば、
韓暹や楊奉あたりが真っ先に挙げられます。
とらちらも李傕・郭汜から逃げる献帝に助力した事でも知られ、
韓暹に関して言えば、献帝によって大将軍にまで出世した人物でもあり、
一方の楊奉も車騎将軍に任命されています。
ちなみに二人が大将軍や車騎将軍に任じられたのは、
献帝が洛陽入城を果たした建安元年(196年)の7月以降の話です。
韓暹は征東将軍を経て大将軍にまで昇り詰めていますが、
征東将軍に任じられた事は「三国志」董卓伝に、大将軍に任じられた事は「後漢書」董卓伝に記録が残されています。
〈献帝が大将軍に任じた人物〉
- 韓暹
- 曹操
- 袁紹
他にも李楽・胡才らも韓暹と共に献帝を助けた事により、
李楽は征北将軍、胡才は征西将軍(「後漢書」董卓伝では、征東将軍と記載)に任じられています。
ちなみにこの時に韓暹は征東将軍に任じられており、
「後漢書」にある胡才の征東将軍と被ってしまう為に、
おそらく「三国志」董卓伝に記載が残る征西将軍が自然だと解釈します。
~建安元年(196年)献帝の安邑(仮都とした場所)到着~
- 韓暹→征東将軍→大将軍(洛陽入城/196年7月)
- 李楽→征北将軍
- 胡才→征西将軍
ちなみに李楽・胡才の二人は献帝が洛陽へと無事に入城を果たした後に、
河東郡へと引き返したと記録にあります。
また大きく出世した韓暹や楊奉ですが、
曹操によって追いやられ、その後は不遇の最期を迎えています。