琥珀は腐芥を取らず

「琥珀は腐芥ふかいを取らず」は、

最初会稽郡の王朗に仕え、後に孫策・孫権に仕えた虞翻に由来する言葉です。

 

虞翻は若い頃ら自らを高める為に学問に励んでいた人物でしたが、

これは虞翻が十二歳の頃の逸話になります。

 

ある者が虞翻の兄のもとを訪れるものの、虞翻へ挨拶に行く事はありませんでした。

 

 

後に虞翻はその者に次のように書いた手紙を送ります。

翻少好學、有高氣。年十二、客有候其兄者、不過翻。

翻追與書曰:「僕聞虎魄不取腐芥、磁石不受曲針、過而不存、不亦宜乎!」

客得書奇之、由是見稱。

 

琥珀は腐った塵芥ちりあくた(塵やごみ)は寄せ付けず、

磁石は曲がった針を受け付けないと私は聞いております。

 

ですのでこちらにおいでになりながらも、

私を直接お訪ね頂けなかった事も不思議ではございません。

 

この手紙を受け取ったその者は、虞翻が非凡な才能を持った人物であった事に気づき、

虞翻の名は知れ渡るようになったとされており、「呉志」虞翻伝の裴松之注「呉書」に記録が残されています。

 

この虞翻の逸話から「琥珀は腐芥を取らず」という言葉が誕生し、

清廉潔白な人物は悪い事には一切手を染めないといった意味で今に伝わります。

虞翻の他逸話

「琥珀は腐芥を取らず」との逸話が残る虞翻ですが、

この逸話の誕生からも分かる通り、虞翻は思った事を率直に言葉にする性格だったこともあり、

虞翻は他の人物との様々な逸話が残されています。

 

関羽に降伏した于禁(孫権の世話になっていた最中)に対して罵声した逸話であったり、

関羽を裏切った糜竺に対して嫌味を言った逸話も残されていますね。

  • 二城(南郡&公安)を失ったにも関わらず、将軍を名乗るなどおこがましいと揶揄。
  • 糜芳が軍門を閉ざしていた所へ通りかかった虞翻→閉めるべき時に開城して降伏し、開けるべき時に閉ざしていると揶揄。

 

また主君であった孫権の怒りを買った話も有名です。

孫権「曹操が孔融を処刑したのと同様に、私も虞翻を殺しても問題はないであろう。」

 

この件は周りのお陰もあって許されたものの、

後に同じことをやらかし、交州へ左遷させられています。

 

最終的に孫権には許されたものの、虞翻は最後まで己を貫き、交州で生涯を閉じています。