馮則(ふうそく)

三国志には、華々しい戦歴を残した人物が数多く登場します。
曹操、劉備、孫権をはじめ、関羽、張遼、周瑜、呂蒙、陸遜など、その生涯が詳しく記録された人物も少なくありません。
しかし、その一方で、たった一つの大きな功績によって歴史に名前を刻んだ人物も存在します。
その代表ともいえるのが、馮則です。
馮則について、私たちが知ることのできる情報は極めて少なく、生年も出身地も字も分かりません。
- どのような家柄だったのか。
- いつから孫権に仕えていたのか。
- どのような戦場を経験してきたのか。
- そのほとんどが分かっていません。
ところが、正史『三国志』には、
彼の名前を後世まで残すことになる一つの出来事が記されています。
それが江夏の宿将・黄祖を討ち、その首を挙げたことでした。
馮則の素性は不明
馮則の人物像を語るうえで、最初に知っておきたいのが、
上でも述べたように「馮則については本当に資料が少ない」ということです。
当然ですが、正史『三国志』に、馮則の独立した伝記はありません。
彼が登場するのは、孫権による黄祖討伐を記した「呉志」呉主伝の一場面です。
そこには、黄祖が敗れて逃走した際、
「騎士の馮則が追撃して、その首を梟した」という趣旨の記録が残されています。
つまり、馮則について確実に言えることは、
孫権軍に所属する騎兵であり、建安13年(208年)の黄祖討伐戦に参加し、
逃走する黄祖を追撃して討ち取ったということです。
馮則が歴史に登場することになった最大の理由は、
孫権と黄祖の間に存在していた、長年にわたる因縁です。
黄祖は荊州牧劉表の配下として江夏太守を務めていた人物です。
そして孫氏にとっては、黄祖は単なる敵将の一人ではありませんでした。
かつて孫権の父である孫堅が、荊州で劉表軍と戦った際、
黄祖の配下である呂公らの追撃を受けて命を落としています。
そのため、孫権にとって黄祖は、父・孫堅の死に関係する宿敵でもあったのです。
その後、孫策、そして孫権へと受け継がれた呉の勢力と、江夏を支配する黄祖との対立は長く続くことになります。
孫策の時代から続いていた黄祖との戦い
黄祖との戦いは、孫権が突然始めたものではありません。
孫策の時代から、孫氏は江夏方面への進出を試みていました。
建安4年(199年)、孫策は劉勲を破った後、その勢力を利用して江夏の黄祖を攻撃しています。
そして黄祖軍を破り、大きな戦果を挙げました。
ただし、黄祖自身はこの時には生き延びています。その後も黄祖は江夏を拠点として抵抗を続けました。
そしてその翌年に孫策が死去してしまい、その後を継ぐことになったのが弟の孫権です。
孫権にとって江夏攻略は、単なる領土拡大だけではありません。
父・孫堅以来の因縁を決着させる意味も持っていたと考えられます。
孫権による一度目の黄祖討伐(203年)
孫権は建安8年(203年)、黄祖を攻撃しました。
この時の戦いでは、孫権軍が黄祖の水軍を破ることに成功します。
しかし、黄祖の本拠地を完全に攻略するまでには至りませんでした。
そして、この戦いでは後に呉の名将として知られる人物も大きく関係しています。
その人物こそ、もともと黄祖に仕えていた甘寧であり、孫権軍の将である凌操を射殺し、黄祖軍を救っています。
ところが、黄祖は甘寧の能力を十分に評価しませんでした。
甘寧を「江賊上がり」と軽視したため、やがて甘寧は黄祖を見限り、孫権のもとへ移ることになります。
そして後に甘寧は、孫権軍の重要な将として大活躍することになるのです。
孫権による一度目の黄祖討伐(208年)
建安13年(208年)、孫権はついに、黄祖を討つため大軍を動かします。
この時の遠征には、周瑜、呂蒙、凌統、董襲、周泰ら、後に呉を代表する武将たちが参加しています。
つまりこの戦いは、単なる地方の小競り合いではありません。
孫権にとっては、
長年にわたって江夏に立ちはだかってきた黄祖を、
今度こそ完全に打倒するための総力戦だったと見ることができます。
そして、この大規模な戦いの最後に登場するのが馮則だったのです。
黄祖が用意した強固な水上防衛線
もちろん黄祖も黙って孫権軍を迎えたわけではありません。
黄祖は沔口付近に大型の蒙衝を配置し、これを利用して孫権軍の進路を塞ぎました。
黄祖は船を巨大な石などを利用して固定し、その上に多数の兵士を配置し、
さらに弓や弩によって、孫権軍に猛烈な射撃を浴びせます。
そのため、孫権軍は簡単には前進できませんでした。
この状況を打開するために立ち上がったのが、董襲と凌統です。
二人はそれぞれ決死隊を率い、兵士たちは鎧を二重に着込んで大型船に乗り込み、敵の蒙衝へ突入します。
そして董襲は、自ら船を固定していた綱を断ち切りました。
これによって黄祖軍の防衛線が崩れ、孫権軍が一気に前進することになります。
呂蒙が敵将を討ち、黄祖軍は崩壊する
水上防衛線が崩れると、孫権軍は一気に攻勢へ転じます。
呂蒙も先鋒として戦い、黄祖軍の水軍都督であった陳就を討ち取っています。
さらに凌統や董襲らも奮戦し、水上戦で敗北した黄祖軍は次第に崩れていきます。
そしてついに、黄祖は本拠地を捨てて逃走しました。
その時、黄祖の周囲には、もはや十分な護衛兵もいなかったことが「呉志」呉主伝から伝わってきます。
| 祖挺身亡走、。騎士馮則追梟其首、虜其男女數萬口。
黄祖は身一つで逃亡したが、騎士の馮則が追ってその首をさらし、その男女数万口を捕虜とした。 |
この文章からも分かる通り、黄祖について「挺身亡走」と記録が残されています。
つまり、黄祖は身一つで逃走したという記述なわけです。
そして、その逃走する黄祖を追いついて討ち果たしたのが、騎士・馮則でした。
ただ
- 馮則がどれほどの兵を率いていたのか?
- どのような装備をしていたのか?
- どこから追撃を開始したのか?
そうした細かな情報は残っていません。しかし一つだけ確かなことがあります。
それは馮則が逃げる黄祖を追い、そして追いついて黄祖の首を討ち取ったということです。
黄祖の首を挙げた馮則
正史『三国志』の表現では、馮則は黄祖を追撃し、「梟其首(その首を梟した)」とされています。
「梟首」とは、討ち取った敵将の首を掲げてさらすことです。
つまり馮則は、単に黄祖を捕らえたのではありません。
逃走する黄祖を追い詰め、その首を挙げるという決定的な戦功を立てたわけです。
そして黄祖の首はさらされることになりました。
孫権にとって、これは非常に大きな意味を持つ戦果だったことでしょう。
父・孫堅の死以来、長年にわたって孫氏の前に立ちはだかっていた黄祖という宿敵が、ついに討ち取られたのです。
そして、その最後の瞬間を担った人物こそ、一人の騎兵・馮則でした。
「黄祖を討ったのは甘寧」ではない
後世の『三国志演義』では、黄祖を討ち取る人物として甘寧が描かれます。
甘寧は確かに黄祖と深い因縁があり、その後に孫権軍に加わって活躍しますが、
あくまで208年の黄祖討伐戦で黄祖の首を取った人物は、馮則なのです。
この一点だけでも、馮則は非常に興味深い存在です。
馮則について、
- 生年
- 没年
- 字
- 出身地
- 家柄
- 孫権に仕えた時期
- 以前の戦歴
- 黄祖討伐後の昇進
- その後の戦績
- 最期
これらは、何も分かりません。
しかし馮則の名が今に伝わるのは、
一つの大功によって、歴史に名前を刻んだというまさに良い例でしょう。
これは関羽を捕らえた事で後世に名を残した馬忠も同じ事が言えます。
そして、その黄祖は単なる一武将ではありません。
劉表のもとで長年江夏を守り、孫堅・孫策・孫権の孫氏三代と対立した人物です。
その宿敵に最後の一撃を加えたのが、後世ほとんど知られていない一人の騎兵・馮則だったのです。
「黄祖の首を取った」という一点以外に情報が残ってない事が、馮則という人物の不思議な魅力となっているのです。

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