「江東の二張」と呼ばれた賢人

孫策の時代に「江東の二張」と呼ばれた二人の賢人がいました。

その二人は張紘・張昭といいます。

 

 

この二人は孫策からの懇願もあって、

孫策に仕えることになりますが、

 

孫策が許貢の残党に襲われたことがきっかけで亡くなってしまうと、

まだ幼かった孫権に仕えて支えた人物でもあります。

 

今回はそんな「江東の二張」の一人である張昭についての逸話になります。

生涯かけて剛直な態度を貫いた呉の御意見番「張昭」

頑固者同士

孫権と張昭の性格は全く違うように見えて、

実はお互いに似たような性格の持ち主でした。

 

「どちらも頑固者」という共通点があり、

二人が激しく意見をぶつけあったエピソードが結構残っていたりします。

 

年齢的にも大きく離れていますし、

親子喧嘩のような感じだったのかもしれません。

 

 

 

それらの中でも一番と言っていい程に激しくぶつかったのが

今回紹介する233年の逸話になります。

 

 

タイトルにも書いていますが、一言で言ってしまうと、

 

お互いに意地を通しすぎた結果、

孫権が張昭の家を燃やしてしまったのでした。

火種は「遼東の公孫淵」

233年と言えば、遼東の公孫淵こうそんえんが、

魏に背いて呉から燕王に任じられた年になります。

 

ただ公孫淵は大国である「魏」と「呉」の両方とも繋がっており、

まさしく二重外交をやっていたのです。

 

簡単に言ってしまうと最初は魏に背いたと思えば、

今度は呉に背いたりとどっちつかずの状態だったわけです。

 

 

 

最終的に魏(魏→呉→魏)に落ち着くわけですが、

曹叡からの信用も失墜していただけでなく、

 

その後も魏を馬鹿にしたように「燕」を建国したことで、

司馬懿によって討たれてしまったのでした。

 

二重外交の先に「再度の裏切り行為」をしたわけですから、

曹叡も我慢の限界がきたのでしょう。

 

 

また公孫淵の一族(公孫恭以外)だけでなく、

 

公孫淵から任命された将軍、

十五歳以上の男子七千人も処刑されています。

 

公孫淵は「燕」を建国して、たった一年余りで滅んだわけです。

 

 

 

孫権と張昭が大喧嘩をしたのは、

 

このように公孫淵の二重外交の中での出来事が火種となって、

激しくぶつかった時の逸話になりますね。

二股外交の先に、独立国を夢見た公孫淵

意見を曲げなかった孫権&張昭

公孫淵が呉との外交関係を持ちたいと思っていた時、

「公孫淵に使者を送るかどうか?」で議論が巻き起こります。

 

 

孫権は「使者を送るべきだ!」と言いますが、

 

一方の張昭は「絶対に使者を送るべきではない!

と言ったことで完全に意見が分かれたのでした。

 

 

 

しかし孫権は自分の考えを押し通して、

公孫淵に使者を送ったことで張昭はいじけてしまいます。

 

そしてそれからの張昭というと、出仕せずに家に引きこもってしまうわけです。

 

 

 

いじけて家に引きこもった張昭に対して孫権は逆に怒りを覚えます。

「またあの爺は!!」ぐらいに思ったのでしょうね。

 

 

そして孫権は張昭が、

家から出てこれないようにする為に、

 

家の門の外側を土を重ねて埋めてしまいます。

 

 

一方の張昭はというと、

門の内側から土で塞いでしまったわけです。

 

 

「完全にどっちも引く気はないよ」

と言わんばかりのぶつかり合いだったのですが、

 

一言で言ってしまうと「子供の喧嘩」ですよね。

 

まぁ長い付き合いがある二人だからこそ、許された逸話だとも思います。

放火魔(孫権)

孫権と張昭がお互いに引かずにやりあっていた頃に、

孫権の送った使者が公孫淵に斬られるという事件が起こります。

 

この事実を受け止めた孫権は、

「張昭の意見は正しかった。

そして間違っていたのは私であった!」

と己の過ちを認めたのでした。

 

 

そして「張昭にも謝りたい!!」と考えて再び訪問した孫権ですが、

一向に張昭が出てくる気配がありません。

 

 

 

この現状を目の当たりにした孫権は、再度怒りを覚えてしまったのです。

そして孫権が取った行動は家門への放火でした。

 

火が広がりつつある中でも張昭は家から出ることをしなかったといいます。

「死んでも出ていくものか!」ぐらいの気持ちだったのでしょうね。

 

ですが家の門から火が広がっている様子を見た張昭の息子達は焦ります。

そして父親である張昭を抱きかかえて、急いで家の外へと飛び出したのでした。

 

 

息子達が家に不在の時であったならば、

もしかしたら意地の張り合いで張昭は焼死し、

 

また張昭の焼死した姿を見て、

「なんてことを私はしてしまったのだ・・・」

と後悔の念に駆られていたかもしれませんね。

和解した二人

息子達に抱えられながら出てきた張昭の姿を見た孫権は、

満面の笑みを見せたといいます

 

そしてそれと同時に孫権は、

「公孫淵に勝手に使者を送ってしまったこと」

に対してきちんと謝罪しています。

 

 

また張昭を馬車に乗せて。

宮廷まで連れていったのですが、

 

そこでも改めて謝罪をした孫権だったのでした。

 

 

 

ちなみに忘れてはいけないのは、

張昭と宮廷に向かっている最中も火は更に広がり続けていると思うのですが・・・

 

 

もしかしたら孫権は、

「後は息子達が勝手に消火活動をしてくれるだろう」

と軽く考えていたのかもしれませんし、

 

再築にかかる費用を出してあげる予定だったから、

気にしなかったのかもしれませんが、そのあたりは完全に謎ですね。