臧洪(ぞうこう、字:子源)

臧洪は、後漢末期に活躍した人物で、
正史『三国志』の呂布と同じ場所に列伝が残されています。
そんな臧洪ですが、三国志の中では決して知名度の高い人物ではありません。
ただその生涯には、後漢末期の混乱を象徴するような出来事が数多く残されている人物でもあります。
特に有名なのが、かつて自分を見出してくれた張超への恩義を最後まで忘れず、袁紹に対しても決して屈服しなかった最期でしょう。
優れた容姿と才能を持った青年
臧洪は、徐州広陵郡射陽県の出身で、父は後漢の官僚として活躍した臧旻でした。
臧洪自身も若い頃から、「容貌や体格が立派であった」と評されています。
やがて孝廉に推挙されて郎となり、その後、県令に任命されました。
同時期に県令となった人物には、後に魏の重臣となる王朗や、江東で活躍する劉繇らもいました。
つまり臧洪は、若い頃から将来を期待された人物だったと考えられます。
董卓の台頭と反董卓連合
霊帝の末年の時期になると、臧洪はいったん官職を辞して故郷へ戻ります。
そこで彼の才能を高く評価した人物がいました。それが広陵太守の張超(張邈の弟)です。
張超は臧洪を郡の功曹に任じ、政治の実務を任せました。
この頃の臧洪は、単なる一官僚ではなく、かなり優れた政治的才能を発揮していたのでしょう。
やがて董卓が朝廷の実権を握り、政局が大きく動き始めます。
臧洪は張超に対して挙兵を促しました。張超は臧洪の意見を受け入れ、兄の張邈と相談して兵を挙げます。
こうして反董卓の動きが各地へ広がっていきました。
そして張邈・張超らは、酸棗に集結します。
そこには劉岱や孔伷、橋瑁ら、董卓に対して兵を挙げた諸侯が集まっていました。
このとき臧洪は、諸侯たちの中でも特に高く評価されていたようです。
張邈も臧洪と直接会うと、その人物を大いに認めました。
そして諸侯が盟約を結ぶ際、
「誰が誓約の言葉を述べるのか」
という話になると、互いに譲り合った末、最終的に臧洪がその役目を担うことになりました。
臧洪は諸侯を前にして堂々と誓約の言葉を述べ、その場にいた人々を感動させたといいます。
ここからも、臧洪が単なる武人ではなく、人を惹きつける弁舌と人格を備えた人物だったことがうかがえます。
しかし反董卓連合は、結局大きな成果を上げられませんでした。
兵糧が尽き、諸侯たちはそれぞれの本拠へ戻っていきます。
袁紹との出会い
その後、張超は臧洪を使者として劉虞のもとへ派遣します。
ところが途中で袁紹と公孫瓚が戦っていたため、臧洪は目的地まで進むことができませんでした。
そして臧洪は袁紹と面会することになります。
ここで二人は意気投合し、袁紹は臧洪の才能を高く評価し、二人は友好関係を結びました。
この出会いが、後の臧洪の人生を大きく左右することになります。
荒廃した青州を立て直す
当時の青州は、青州刺史の焦和が無くなっていた事もあり、かなり荒廃している状態でした。
袁紹は臧洪に青州を任せ、その治安回復に当たらせます。
臧洪は青州の統治に力を尽くし、二年ほどの間に盗賊を鎮圧したと伝えられています。
この功績によって袁紹からさらに評価され、今度は兗州東郡太守に任命されました。
臧洪は東武陽を拠点として東郡を治めることになります。
ここまでを見ると、
「袁紹に才能を認められ、順調に出世していった人物」
という印象を受けますが、この後、臧洪の人生を決定的に変える事件が起こります。
張超の死&袁紹との決別

臧洪が東郡太守を務めていた頃、張超は雍丘に立て籠もっていました。
そして曹操の軍によって包囲されます。
張超は臧洪にとって、単なる同僚や旧知の人物ではありません。
自分の才能を認め、世に出る機会を与えてくれた人物でした。
そのため臧洪は、張超を救おうとします。
臧洪は裸足で駆け出すほど焦り、「兵を貸してほしい」と袁紹に救援を願い出ました。
しかし、袁紹はこれを許しませんでした。
当時、袁紹と曹操はまだ決定的に敵対していません。
そのため袁紹にとって、張超を救うために曹操と敵対することは受け入れ難かったのでしょう。
そしてついに雍丘は陥落してしまい、張超は自殺し、その一族も殺されました。
張超の死を知った臧洪は、袁紹に対して激しく怒り、袁紹との絶交を決意したのでした。
これは臧洪にとって非常に大きな判断となります。
臧洪は袁紹によって青州刺史、そして東郡太守に抜擢してくれた人物であり、
臧洪にとって自分を出世させてくれた恩人でもありました。
それでも臧洪は、
「自分を世に出してくれた恩人」と「自分を助けてくれなかった張超の敵」
を天秤にかけ、張超への義を選んだのです。
袁紹は当然、この態度を許しませんでした。
袁紹軍との戦い
袁紹は臧洪が守る東武陽を攻撃します。
さらに、臧洪の旧友である陳琳に手紙を書かせ、降伏するよう説得させました。
しかし臧洪は降伏しません。
袁紹から受けた恩を理由に屈服するのではなく、張超との友情と自分自身の信念を優先したのです。
袁紹はついに大軍を送り込み、臧洪の城を包囲するに至ります。
そこで臧洪は援軍を求め、呂布にも救援を求める使者を送っています。
しかし援軍は来ず、城は完全に孤立してしまいました。
ここからの話は、臧洪の生涯でも特に壮絶な場面です。
城内では食糧が底を尽き始めます。
それでも兵士たちは臧洪のもとから離れませんでした。
やがて食べられるものがなくなり、鼠を食べて飢えを凌ぐほどの状況になります。
それすら尽きると、薄い粥を作って、将兵全員で分け合いました。
臧洪自身も兵士たちと苦しみを共有します。
そして最後には、自らの愛妾を殺して、その肉を兵士たちに与えたと伝えられています。
現代の感覚からすると非常に凄惨な話ですが、それほどまでに城内が追い詰められていたことを示す逸話です。
兵士たちはこれを知ると涙を流したといいます。
臧洪は自分だけが生き延びようとはしませんでした。
最後まで兵士たちと運命を共にしたのです。
臧洪は、最後まで降伏しませんでした。やがて城は陥落します。
城内にいた男女は七千人~八千人ほどに及んだとされ、その多くが殺されました。
しかし臧洪自身は生け捕りにされます。
ここで袁紹は、なおも臧洪を惜しみました。かつて自分が見出した人物だったからでしょう。
そのため袁紹は、何とか臧洪を屈服させようとします。
しかし臧洪は最後まで拒絶しました。そして袁紹は、ついに臧洪を殺害したのでした。
臧洪の魅力(義の連鎖)
臧洪の最期には、さらに印象的な話が残されています。
同郷の陳容という人物がいました。
陳容は臧洪の書生で、東郡の丞を務めていた人物です。
臧洪は落城前、陳容を城から脱出させていました。
その後、陳容は袁紹のもとにいましたが、臧洪が殺されようとすると袁紹を激しく非難します。
その結果、陳容も殺害されました。
袁紹の配下たちは、この出来事を見て、
「今日は二人の烈士を殺してしまった」と密かに嘆いたといいます。
また、臧洪が呂布に救援を求めるため派遣した二人の司馬も、戻ってきた時にはすでに城が陥落していることを知ります。
そして彼らも敵陣に突入して戦死したと伝えられています。
臧洪を中心に、多くの人間が最後まで義を貫いたのです。

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