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程昱(程立)という人物
程昱は字を「中徳」といい、
誕生年が不明な者が多い三国時代にあって、
きちんと誕生年が「永和六年」だと伝わっている人物になります。
ちなみに「永和六年」は、現在の西暦に直すと141年のことです。
程昱はもともと程立という姓名で、
「八尺三寸」ほどの背の高い人物だったと言います。
ちなみに「八尺三寸」と言えば、
現在で言う所の190センチを超えてることになるので、
今の感覚から見ても高身長であったのですから、
この時代であるならば巨人のように見えた可能性はあるでしょうね。
一方で程昱が仕えた曹操は、
身長が低いことを気にしていたといいますから、
身長の高い程昱が隣にいると、もしかして嫌な気持ちになったのかもしれません。
あくまで想像ではありますが・・・
ちなみに程立から程昱に名前を改めるように言った人物は、
実は曹操だったりします。
また立派な髭と言えば、
関羽や孫権といった人物が思い描くかもしれませんが、
「程昱も立派な髭を蓄えていたこと」
が正史にもきちんと残っています。
程昱の美しい「顎鬚」と「頬髯」の見た目から、
二つの漢字を使って「美鬚髯」と・・・
東阿県を守った程昱
張角率いる「黄巾の乱」が各地で発生すると、
黄巾賊に呼応する者達が次々に現れたのですが、
それは程昱が住んでいた東阿県も例外ではなく、
東阿県丞であった王度が呼応し、
街に火を放っては略奪を働いたのでした。
この事態を重く見た県令は、命の危機を覚え我先にと逃亡していますね。
実際に多くの太守や県令が殺害されていたので、
「県令が取った行動は正しくはないにしろ、
決して間違っているものではなかった」というのが実情だと思います。
また官吏や民衆も山の中へと避難したといいます。
そんな中で程昱は冷静に王度の様子を探ってみると、
城の制圧に失敗したようで、城外に駐屯していた事が分かったのでした。
程昱はこれを「絶好の機会だ!」と判断し、
逃亡していた県令を見つけ出すと
「密かに城に戻って防御体制を敷いた」といいます。
そして王度が城へ攻撃をしかけてきたわけですが、
程昱は協力してこれを防ぎつつ、
民衆を率いて出撃して王度を打ち破ることに成功しています。
これにより東阿県の混乱は落ち着いたのでした。
曹操の台頭&程昱の仕官
程昱は兗州刺史の劉岱から、
何度か招きを受けていますが全て断っていますね。
普通に断ったり、病気を理由に断ったりと・・・
ただ劉岱から大事な相談を受けた時は、
親身になって話を聞いてあげたといいます。
それらの相談の中で最も知られている逸話は、
袁紹と公孫瓚が対立した際に、
「袁紹の味方をする方が得策だ」
と助言した逸話が一番有名かと思います。
その後に黄巾賊(青州)の残党が暴れ出すと、
最終的に劉岱は討ち取られてしまうことに・・・
この時は劉岱は「撃って出るべきだ!」と主張したのに対して、
共に戦っていた鮑信は「籠城に徹すべきです!」と意見がぶつかってしまい、
結果的にそれぞれの意見を尊重し、
「鮑信は籠城、劉岱は出陣」
という流れになったわけです。
鮑信が危惧していた通り、劉岱が討ち取られてしまうと、
新たな兗州牧として曹操に声をかけたのでした。
鮑信と曹操は協力して黄巾賊討伐に乗り出すわけですが、
その戦いの中で鮑信も討死していますね。
しかし最終的に曹操が青州黄巾賊を降伏させたことで、
「青州兵」という大きな戦力を手に入れたわけです。
ちなみにこの戦いで曹操は、次のものを手に入れたことになりますね。
- 兗州&兗州牧
- 三十万人の青州兵
- 青州兵を含む百万人の民衆
そして今度は曹操から招かれることになった程昱ですが、
曹操からの招きにあっさり応じています。
徐州(陶謙)討伐&張邈の裏切り
曹操の父親である曹嵩が、陶謙の部下に殺害される事件が発生すると、
曹操は大軍を率いて陶謙討伐に乗り出します。
裴松之が「世語(魏晋世語)」の注釈を加えた中に、
「張闓が殺害した」と言ったような記載が見られるのは余談です。
この時の曹操の怒りは半端なものではなく、
曹操の行く所に鳥や犬さえもいなくなってしまった。
そして死体が泗水を埋めたことで、
川の流れが止まったとまで言われています。
そんな折に、曹操の留守をつく形で、
張邈・陳宮が呂布を担ぎ上げて反乱を起こしたのでした。
これにより兗州の多くの郡県が張邈らになびくも、
荀彧・程昱のお陰で「鄄城」をはじめ、
「東阿・范」を守り抜く事に成功しています。
兗州での報告を受けた曹操は、
徐州攻略を諦めて急いで撤退を開始したわけですが、
荀彧と程昱は曹操の帰還までしぶとく、三城を守り通すことに成功したのでした。
ちなみに最初にも述べましたが、
程昱が曹操から名前を改名するように言われたのがこの頃になりますね。
ちなみに改名の理由として、
「程昱が自分を大きく支えてくれる人物である」
との願いも込められていたようです。
献帝奉戴
献帝が李傕・郭汜から逃れる形で、
長安を脱出して洛陽へと逃れてくるわけですが、
そのことを知った曹操は献帝を迎えるべく洛陽へと赴きます。
この時に献帝を迎える事を強く推した人物が、
荀彧と程昱でした。
曹操は程昱のこれまでの功績に報いるべく、
尚書&済陰太守&兗州都督に任じています。
また曹操は董卓の長安遷都以降、
既に荒廃して復旧の目処が立っていなかった洛陽ではなく、
許昌を新たな都として定めています。
「青州兵」という武器と、
「献帝」という大義名分を得た曹操の快進撃は、
ここから始まっていくことになります。
程昱の「劉備殺害」VS郭嘉の「劉備殺害反対」
劉備が呂布に敗れて落ち延びてきた際には、
程昱は劉備を殺害することを提案していますが、
曹操は郭嘉の提案を採用して、
劉備を殺害することはありませんでした。
ただその後に曹操が袁術対策として、
劉備を呂布亡き後の徐州に派遣させるわけですが、
この時は郭嘉と程昱の二人揃って反対するものの、
曹操が二人の言葉を取り上げることはありませんでした。
しかし後に後悔するものの、時既に遅く、
徐州に到着した劉備は車冑を殺害して独立してしまったわけですね。
まさに郭嘉と程昱の不安は的中してしまう形となったのです。
曹操からの援軍×程昱の機転
程昱が鄄城の守備を命じられていた頃、
袁紹が大軍を率いて南下してきたことがありました。
曹操は鄄城に二千人の援軍を送ろうとしたことがあったのですが、
程昱はその援軍を断ります。
鄄城の守備兵はたったの七百人しかおらず、
それを危惧しての曹操からの援軍の話だったわけです。
程昱は曹操に対して、
「敵は大軍、こちらは七百人しかいません。
今の現状であれば、
袁紹は甘く見て鄄城を攻撃することはないでしょうが、
もし新たに二千人の援軍が送られたとならば話は別で、
袁紹が攻撃してくる可能性が増すだけでしょう」と返答したといいます。
そしてまさに程昱が言った通りの展開になり、
袁紹が鄄城に攻撃を仕掛けてくることはありませんでした。
これに対して曹操は、
「程昱の度胸は、孟賁・夏育を凌ぐ程のものだ!」
と感嘆した逸話が残っていますね。
ちなみに孟賁・夏育の二人は、
どちらも戦国時代の秦の将軍になるのは補足です。
また袁紹遺児である袁譚・袁煕・袁尚との激突の際も、
陰ながら曹操を支援しており、
程昱はそれらの功績により、
奮武将軍に任じられ、安国亭侯に封じられています。
曹丕&程昱
曹操が馬超・韓遂らを討伐すべく出陣してた折に、
田銀・蘇伯が反乱を起こしたことがありました。
この時に留守を任されていたのは曹丕だったのですが、
賈信が討伐を赴いて討伐するわけですが、
「千人を超える者が降伏を願い出た」といいます。
それに対して多くの者達は、
「法に則って処刑すべきだ!」を進言・・・
ただその中にあって程昱は、
「包囲が完了した者の降伏を認めなかったのは、
あくまで戦乱の世だったからでああり、
現在は既に天下は落ち着きつつあり、
そんな中で降伏を願い出た者を処刑して何になりましょうか!?
ましてや今回の反乱は国内のことであり、
降伏した者を全て処刑したとしても何か生まれるものでもありません。
戦乱の世ではその後に降伏者が出やすくなるようにする為の対応だったわけですので、
そもそもの事情が全く異なります。
それでも処刑を決定されるというのなら、
とりあえず曹操様の意見を求めた後の方が良いでしょう。」
と語っています。
これに対して多くの者達は、
「わざわざ曹操様に許可を頂く必要はないだろう。
なぜならこういう時は専断が許されるのが一般的だからだ」
として反論したといいます。
それを聞いた程昱は黙り込んだわけですが、
曹丕は程昱の様子が気になり、程昱と二人きりで話を聞きます。
「黙り込んでいたけれど、
本当は言いたい事があったのだろう!?」
と曹丕が話しかけると、
「先程専断の話が出ていましたが、
そもそも専断とは本当に急を要する場合だけに認められるものです。
あのように軽はずみに用いて良いものではなく、
現在は反乱を起こした者達は賈信によって既に捕らえており、
急を要するような場面は何もありません」と答えます。
曹丕は程昱の言葉に納得し、
曹操に判断を委ねることにしました。
そして曹操が下した判断は、「処刑を許さない」というものでした。
そして曹操が馬超・韓遂討伐を成し遂げて帰還すると、
「程昱殿は戦略上の事だけでなく、
私と息子の関係もうまくとりはからってくれた」
と感謝の言葉を述べたといいます。
そして別の機会に曹操が程昱を褒め称える事があった。
「今の私があるのは貴方のお陰だ!」と・・・
この話を聞いた一族の者達は、
程昱の為に宴会を開いたのですが、程昱は喜ぶことはありませんでした。
また程昱はそれと同時に、
「今がまさに退く時だ!」と隠居を申し出たといいます。
「引き時」を間違えれて恥辱を受けたり、
悲惨な最期を迎えた者達も数しれない中で、
程昱自身も例外ではない事に自分自身で気づいていたのだと思いますね。
しかしその後も曹操のもとにとどまっていることから推測するに、
曹操が程昱の隠居を認めなかったのかもしれませんね。
余談(程昱死後の逸話)
そして220年に曹操が亡くなると、
曹操の後を追うような形で八十歳で天寿を全うしています。
また233年に曹叡が魏の功臣を選んだのですが、
夏侯惇・曹仁・程昱の三人が選ばれ、曹操の廟庭に合祀されたのでした。
その後も何度か合祀はされていますが、
この三人が初めての合祀であったのは余談です。
夏侯惇は「不臣の礼」とまで言われた人物で、
曹仁も曹一族の中で飛び抜けて功績が高い人物です。
一番有名どころでいえば、
樊城で関羽の猛攻を防いだ話かもしれません。
そんな二人と並んで程昱が選ばれたのですから、
程昱の功績が魏王朝の中でどれほどに大きかったのかが良く分かる例になりますね。
そんな程昱を陳寿は、
「郭嘉・董昭・劉曄・蔣済と並ぶ人物だと評価する一方で、
荀攸程の徳業は無かった。」
と評価しています。
そんな程昱ですが、
「三国志演義」でも様々な活躍の場面が描かれています。
劉備のもとにいた徐庶を引き抜く為に、
徐庶の母親を利用するように曹操に進言したのが程昱だったりします。
そして官渡の戦いの翌年に再び激突した倉亭の戦いでは、
「十面埋伏の計」を考案し、曹操軍を勝利に導いています。