司馬徽(徳操)-水鏡先生-
司馬徽は豫州潁川郡陽翟県の出身で、
字を「徳操」といい、人物鑑定を得意とした人物ですが、
多くの謎を秘めた人物でもあります。
そんな司馬徽ですが豫洲から荊州に移り住み、襄陽郡にて龐徳公と出会ってからというもの、
司馬徽より十歳年上であった龐徳公を兄として慕い、
「龐公」と呼んだと「蜀志」龐徳伝の注釈「襄陽記」に書かれてあります。
また龐徳公は司馬徽のことを、
「水鏡」と例えている事でも知られているわけですが、
同時に諸葛亮を「臥龍(伏龍)」、
龐統を「鳳雛」と例えたのも龐徳公だったりします。
そして「三国志演義」でも採用されている事からも良く知られた逸話ですが、
司馬徽と出会った劉備に「臥龍」が諸葛亮で、「鳳雛」が龐統であることを教え、
劉備が諸葛亮と出会う橋渡し的な役割を果たしています。
この逸話も「襄陽記」に書かれている逸話ではあるのですが・・・
つまりこれらの事からも分かるように、龐徳公もそうですが、
司馬徽も「襄陽記」なしには多くを語る事ができない人物でもあるのです。
それは「襄陽記」から知る事のできる情報が非常に多い事を意味しています。
またそんな司馬徽ですが、劉備と諸葛亮が出会うきっかけを作ったかと思うと、
自分自身の最期の役目を果たしたかのように、
それから一年も経たずぐらいでこの世を去っています。
まぁ「蜀志」諸葛亮伝では、劉備は徐庶から諸葛亮の存在を知って、
「三顧の礼」で迎えたように記載があるので、
その場合は「襄陽記」にある、司馬徽が劉備に紹介した流れではありませんが・・・
「蜀志」龐統伝の本文に描かれる司馬徽について
龐統字士元、襄陽人也。少時樸鈍、未有識者。
潁川司馬徽清雅有知人鑒、統弱冠往見徽、
徽採桑於樹上、坐統在樹下、共語自晝至夜。
徽甚異之、稱統當南州士之冠冕、由是漸顯。後郡命為功曹。
これが「蜀志」龐統伝にある龐統と司馬徽の逸話になります。
翻訳すると次のようになります。
「龐統の字は士元で、襄陽郡の人である。
若い頃は地味であった為に龐統を評価する者がいなかった。
しかし潁川郡(豫洲)の司馬徽が優れた見識眼をもっているという事で、
龐統は二十歳の頃に司馬徽に会いに行った。
丁度司馬徽は桑の木に登って葉を摘んでいた最中で、
龐統を木の下に座らせて語り合ったが、気づけば夜になっていた。
司馬徽は龐統を高く評価し、『荊州の士人の中で第一人者になるだろう』と称賛した。
それから龐統は徐々に有名になり、郡の功曹となった。」
龐統が生涯において、人物評価をするのが好きになった一つの理由は、
司馬徽の影響を強く受けたからという可能性はありそうですね。
「世説新語」にある司馬徽と龐統の潁川郡での逸話
南郡龐士元聞司馬德操在潁川、故二千里候之。
至、遇德操採桑、士元從車中謂曰:
「吾聞丈夫處世、當帶金佩紫。焉有屈洪流之量、而執絲婦之事。」
德操曰:「子且下車、子適知邪徑之速、不慮失道之迷。
昔伯成耦耕、不慕諸侯之榮:原憲桑樞、不易有官之宅。
何有坐則華屋、行則肥馬、侍女數十、然後為奇。
此乃許、父所以忼慨、夷、齊所以長嘆。
雖有竊秦之爵、千駟之富、不足貴也。」
士元曰:「僕生出邊垂、寡見大義。
若不一叩洪鍾、伐雷鼓、則不識其音響也。」
〈翻訳〉
南郡の龐統(士元)は、潁川郡の司馬徽の噂を聞くと、
人相見に長けた司馬徽(徳操)が穎川にいると聞いて、二千里の道のりを尋ねていった。
穎川郡に龐統が到着した際に、司馬徽は桑の収穫を行っていたので、
龐統は馬車に乗りながら次のように司馬徽に語り掛けた。
「立派な人物というのは金佩紫を帯びて、
立派な身なりをしておく必要があると聞いている。
なのにどうして貴方は、女性がやるような仕事をされているのか?」
これに対して司馬徽が答えた。
「貴方は一旦馬車から降りてみた方が良い。
今の貴方はいかに早く道を駆け抜けるかのみに心を囚われ過ぎている。」
だからこそ行き先が分からず、道に迷うかもしれないという発想がない。
昔、伯成(堯に仕えた人物)は田畑を耕して栄耀栄華を求めなかった。
また原憲(孔子の弟子)も粗末な家に住んで、立派な家に住むことを良しとしなかった。
立派な家に住み、立派な馬にまたがり、
数十人の待女を抱える事だけが立派であるということはあるまい。
そしてこれこそが許由と巣父(二人は伝説とされる堯の隠者)が激しく憤った理由であり、
白夷・叔斉(二人は殷の孤竹君の息子)の嘆いた理由なのだ。
例え秦から盗みとった爵位や馬千乗があったとしても、尊敬するには値しないものである。」
これを聞いた龐統は次のように答えます。
「私は田舎より出てきて、
貴方に会って、やっと大義が何ぞやという事に気づかされました。
立派な鐘や太鼓が出す音を聞いた事がなければ、
鐘や太鼓からどのような音が出るのか想像できないのと同じ事であります」と・・・。
これが「世説新語」に記載されている司馬徽と龐統の逸話になり、
この「世説新語」の逸話を「襄陽記」の逸話に合わせることで、
「襄陽記」の逸話が更に重厚感が増す感じになるのは間違いないですね。
「好好先生」
横山光輝三国志(20巻132P)より画像引用
司馬徽は誰に何を聞かれても、「好好」と答える癖があったそうです。
これは日本語でいう所の「善きかな、善きかな」といった相槌を打つだけのような意味ですね。
このあたりの話は、明時代の人物である馮夢竜の著した「古今譚概」にも、
その話は記載されていますし、「司馬徽別伝」のように他にもこの逸話は収録されていたりします。
またある時に荊州を治めていた劉表が、
司馬徽を登用するように勧められた事があったのですが、
劉表が司馬徽の噂(好好先生)を耳にすると、
司馬徽を高く評価せず、登用する事はなかったという逸話も残っていたりします。
その後に曹操が劉琮を降した際に司馬徽を知ると、
司馬徽を高く評価し、登用しようとしたけれども間もなく司馬徽は亡くなったといいます。
つまり劉表は噂を聞いて司馬徽を評価せず、
曹操は噂に惑わされず司馬徽を評価したという事が分かる逸話となってますね。
またそんな中にあって劉備には、
「『好好』ではなく、
臥龍鳳雛(諸葛亮・龐統)の事を伝えている」
という点を考えると、
司馬徽は自分の目にかなった相手には「好好」以外の言葉で、
高い見識を垣間見せたという事でしょう。
そんな司馬徽は、諸葛亮・龐統・徐庶であったり、
韓嵩・向朗・孟建・崔州平・劉廙・尹黙など、
後に活躍するそうそうたる面子を弟子に持っていますね。