王渾(玄沖/おうこん)
王渾は并州太原郡晋陽県の出身で、
王昶の息子にあたりますが、魏晋にわたって活躍した人物になります。
王渾の活躍として一般的に知られているのは、
280年の呉滅亡の一方面を任された人物という事でしょう。
司馬炎は大規模作戦として六方面から呉へ侵攻を開始するわけですが、
この時に周浚(揚州刺史)らと共に揚州の軍勢を任されたのが王渾です。
そんな王渾ですが、「晋書」王渾伝が立てられていますね。
また六方面の戦いの中で誕生した杜預の「破竹の勢い」の言葉は、
現在でも使われる程に有名な言葉であったりするのは余談です。
- 王渾に揚州軍を指揮させ、横江・牛渚から侵攻させる
- 杜預に荊州軍を指揮させ、江陵より侵攻させる
- 王濬・唐彬に益州軍を指揮させ、長江を下り侵攻させる
- 司馬伷に徐州軍を指揮させ、涂中より侵攻させる
- 王戎に豫洲軍を指揮させ、武昌より侵攻させる
- 胡奮に荊州の一部の兵を率いて、夏口より侵攻させる
王渾の性格については「沈雅有器量」と書かれています。
「落ち着いており、その振る舞いは立派で、
器量がある人物であった。」
といった意味として褒め称えられているということになりますね。
王渾の父親である王昶は、司空にまで上り詰めた人物でありましたが、
その後に父親の爵位であった京陵侯を引き継いでいますね。
そんな王渾ですが、曹爽から大将軍府の掾に招かれますが、
司馬懿のクーデターによって曹爽らが処刑されると、
王渾もまた連座的な罰を受ける形で罷免させられています。
その後に懐県の県令として復職すると、
司馬昭の参軍事となり、そして黄門侍郎・散騎乗尉に昇進し、
咸熙年間(曹奐の治世/264年 ~265年)には越騎校尉に任じられています。
大出世&呉方面での活躍
司馬炎が曹奐から禅譲を受ける形で「晋」を建国すると、
王渾は楊烈将軍になり、その後に徐州刺史を任されています。
また飢餓が発生した際には、倉庫を開いて施したことで民衆は落ち着いたといいます。
その後に王渾は司馬炎より封邑を千八百戸を追加され、
東中郎将・督淮北諸軍事となって、かつての都であった許昌に駐屯しています。
王渾は征虜将軍・監豫州諸軍事・仮節・豫州刺史に転任し、
呉との国境を任される事になりますが、
薛瑩・魯淑が十万と称した軍勢(実際に十万人がいたわけではないと思われる)で豫洲へ攻め込んでくると、
薛瑩が汝南郡新息県へ、魯淑が弋陽郡弋陽県へと侵攻します。
この時に豫洲の兵士達の多くが兵役を解かれて休憩していたタイミングだったこともあり、
王渾が動かせる軍勢は僅か(一旅)だけだったようですが、
淮水を密かに渡航して敵の不意をついたことで勝利を得ていますね。
その後に安東将軍・都督揚州諸軍事・持節を任されると、
寿春県(揚州)に滞在し、王渾は呉に攻撃をしかけ、
穀物(百八十万斛)・稲苗(四千頃)・船(六百艘)を焼き払う功績をあげたようです。
何故に王渾が攻撃を仕掛けたのかというと、
晋を攻撃する為の備蓄を取り揃えていたからになります。
大規模な六方面からの呉侵攻
咸寧五年(279年)に入ると、
かねてより羊祜が呉攻略を司馬炎に上奏していた事が実行に移される事となります。
羊祜は呉の名将である陸抗が亡くなった事を機に、
幾度となく呉攻略の重要性を説いていた人物でもありますが、
司馬炎にその言葉が取り上げられる事はなく、
前年度の咸寧四年(278年)の末ごろに亡くなっていたりします。
「最期まで聞き届けらえなかった事は無念であった。」
といったように記録にも残されています。
羊祜は最期に同じような考えを持っていた杜預を推薦して亡くなるわけですが、
その杜預は六方面作戦の一端を任されて活躍したのは知られる所ですね。
- 王渾に揚州軍を指揮させ、横江・牛渚から侵攻させる
- 杜預に荊州軍を指揮させ、江陵より侵攻させる
- 王濬・唐彬に益州軍を指揮させ、長江を下り侵攻させる
- 司馬伷に徐州軍を指揮させ、涂中より侵攻させる
- 王戎に豫洲軍を指揮させ、武昌より侵攻させる
- 胡奮に荊州の一部の兵を率いて、夏口より侵攻させる
王渾はすぐ上でも書いたように、
司馬炎の命にて横江・牛渚から侵攻することとなります。
この際に王渾は孫疇(司馬)と周浚(揚州刺史)に攻撃を命じていますが、
張悌・諸葛靚・孫震・沈瑩らが呉の最期の主力とも言える三万の兵を率いて対峙したわけです。
- 張悌 -丞相-
- 諸葛靚 -大司馬・副軍師-
- 沈瑩 -丹陽太守-
- 孫震 -護軍将軍-
ただこの版橋の戦いは、最終的に晋軍に軍配があがり、
張悌と孫震を討ち取られてしまっています。
またこの際に討ち取られたり、
捕虜にされた呉兵は7800人にものぼったといいます。
ちなみに「晋書」王渾伝には、
孫震は護軍ではなく、大将軍として書かれてあります。
「大將軍孫震等率眾數萬指城陽」
また呉最後の丞相であった張悌ですが、
「国に殉ずるものが一人ぐらいいてもよかろう」
と語って敵に突撃した姿は、色々と考えさせられるような最期でもあったりします。
この張悌の最期の姿を知って、
好きになった人も多いのではないでしょうかね!?
このように王渾が呉の主力部隊に勝利したわけですが、
そんな中で益州より長江の流れに乗って下ってきた王濬が建業へと迫ったことで、
孫晧が降伏し、晋の中華統一が成し遂げられるのでした。
王濬との確執
王渾は自らの手で呉を滅ぼす予定であったのに、
横から奪われた形になった王濬を深く恨んだといいます。
王渾は版橋の戦いで大勝しつつも、中央からの命令もあって待機していたわけです。
また王渾を通して王濬にもその話が伝えられていたのでした。
それを王濬は無視して一番美味しい所を奪った形になったわけですから、
王渾が王濬を恨んだというのも自然な流れかもしれませんね。
本来であれば「呉を滅ぼしてめでたしめでたし」という所でしょうが、
かつて蜀漢を滅ぼした鄧艾・鍾会も最大の功績者であったにも関わらず、悲惨な末路を辿っていますし、
どうしても大功を争う中で芽生えてしまう自然な感情なのでしょう。
そして王濬も王渾の振る舞いに不満をもらし、両者は対立関係が続く事となったのでした。
王濬が王渾と会う時には、衛兵を配備してから会う程だったとか・・・
最終的に王濬が引くような形を取った事でなんとか収まるわけですが、
完全に王渾の手前勝手の嫉妬でしかないと思いますね。
ちなみに武帝は詔を出して、呉攻略についての王渾の功績について褒め称えていたりします。
ただ一方の王濬もその後にきちんとした評価を受け、出世しているのは余談です。
「王渾が軍勢を率いて秣陵(建業)に迫ったことで、孫晧は守備を固めざるを得なかった。
これは言い換えれば、 呉の多方面からの北上を防いだことであり、
王渾の働きのお陰で王濬が大功を上げることができたのである。
また王渾は敵の主力を討伐し、張悌の捕縛に成功し、呉国を窮地に追い込んだ。 最終的に孫晧は自らを縛り降伏するに至ったのである。」 |
これにより王渾は八千戸の封増され、「公」に封じられています。
またこれにあわせて息子の王澄を亭侯に、王湛を関内侯に封じられてもいますね。
呉攻略に大功をあげた王渾は、
征東大将軍に転任し、寿陽に滞在して揚州方面の統治に力を入れています。
王渾は呉国(江東)の人々に寄り添った事で、
多くの人々が自ら進んで晋の支配下に収まっていったといいます。
その後に王渾は尚書左僕射・散騎常侍に任じられ、中央へと戻っていっていますね。
「八王の乱」の最中で天寿を全うした王渾
劉淵といえば、魏晋に仕えた劉豹(南匈奴/左部帥)の息子であり、
咸寧五年(279年)に亡くなった後に、
司馬炎の命により左部帥の職務を代行した人物でありますが、
そんな劉淵と王渾は友人関係にあり、
かつて司馬炎に対して劉淵を推薦したのも王渾でした。
また司馬炎の弟である司馬攸が、兄に対して劉淵を除くように上奏した際には、
「劉淵殿は優れた人物で、匈奴を代表する人物であります。
そんな彼を理由もなく除いてしまえば、
晋朝にとってもよからぬことになるでしょう。」
と進言し、司馬炎に聞き入れられた逸話も残されています。
後日談ですが、後に晋(西晋)が滅ぶ事になったのが、
劉淵であった事は皮肉の話であったりします。
290年になると司徒に任じられ、その年に司馬炎が崩御すると、
新たに跡を継いだ司馬衷(恵帝)に侍中を加えられています。
そして大きな力を持っていた楊駿が、
司馬衷の皇后であった賈南風により三族皆殺しにされると、
王渾は兵権までもが特例として授けられるも、
「司徒(文官)の立場で、
兵権を与えられた事例は一度も聞いた事がない。」
として、兵権を朝廷に返上した逸話も残されています。
ちなみに父親である王昶も最終的に司空になっていますので、
同じ三公の地位にまで上り詰めたと言えるでしょうね。
そんな逸話がありつつも、司徒となって以降の王渾は、
影響力は大きかったものの、その声望は右肩下がりで下がっていったと記録に残されています。
また晋王朝は司馬炎亡き後に、
王族の者達が争っていく「八王の乱(291年~310年)」が起きるわけですが、
八王と呼ばれる者達は次の者達になります。
- 司馬亮(汝南王):司馬懿の三男
- 司馬瑋(楚王):司馬炎の六男
- 司馬倫(趙王):司馬懿の九男
- 司馬冏(斉王):司馬攸(司馬炎の弟)の子
- 司馬乂(長沙王):司馬炎の十七男
- 司馬穎(成都王):司馬炎の十九男
- 司馬顒(河間王):司馬孚(司馬懿の弟)の孫
- 司馬越(東海王):司馬馗(司馬懿の弟)の孫
その渦中にありつつも、王渾はうまく立ち回りつつ、
元康七年(297年)に天寿を全うし、「元公」という諡号を贈られています。