鍾毓(しょういく)

鍾毓は、魏の重臣であった鍾繇の子として誕生します。

 

後に蜀討伐を成し遂げた後に独立を夢見て反乱を起こす鍾会は、

鍾毓の弟にあたります。

 

 

鍾毓は鍾繇の風貌を兼ね備えており、

鍾繇の子で頭もよかった鍾毓は周りからの期待も大きく、

 

父親の鍾繇同様に曹叡に仕え、14歳で散騎侍郎に任命されています。

 

230年に父親が亡くなると、

鍾毓が父親の爵位を引き継いで家督を継ぎました。

曹操に「漢の蕭何(しょうか)に匹敵する」と称えられた鍾繇

鍾毓は三男だった!?

ちなみに爵位を引き継いだ鍾毓ですが、

鍾繇の子は、鍾毓・鍾会以外に女の子が一人いたことは分かっています。

 

この女の子の名前は残っていませんが、

荀彧や荀攸の一族にあたる荀肸に嫁いでおり、荀勗じゅんきょくの母親にあたります。

 

 

そして鍾毓の話に戻ると、鍾毓の字は「稚叔」というんですが、

中国の姓名やあざなに詳しい人ならばピンとくると思います。

 

中国の姓名と字には色々な法則性があったりしますが、

この鍾毓の字に使われた「叔」に大きなヒントが隠されています。

 

これは当時の中国では鉄板的な一つの法則であり、

長男・次男・三男・四男の「字」に、「伯(or孟)・仲・叔・季」をつけていく場合があります。

 

例えば三国志の中で一番分かりやすい一族を言うと、

孫堅の子供達ですよね。

  • 長男:孫策(符)
  • 次男:孫堅(謀)
  • 三男:孫翊(弼)
  • 四男:孫匡(佐)

 

 

もう分かりますよね。

鍾毓の「稚叔」には見事に三男の特徴でもある「叔」が使われています。

 

ではもう一人、鍾毓の弟でもあり、鍾繇の末子にあたる鍾会を見てみましょう。

鍾会の字は「士季」といいます。

 

見事に鍾会にも、四男の特徴にあたる「季」が使われています。

 

ということは鍾繇には、鍾会が末子であることは分かっているので、

鍾毓には二人の兄がいたということが想像つきます。

  • 長男:鍾〇(〇伯or伯〇or〇孟or孟〇)
  • 次男:鍾〇(〇仲or仲〇)
  • 三男:鍾毓(稚叔)
  • 四男:鍾会(士季)

 

 

鍾毓・鍾会の例をみると、

後の方にその漢字が割り当てられている事からも、

 

長男であれば「鍾〇(〇伯or〇孟)」、

次男であれば「鍾〇(〇仲)」じゃないかなと個人的には思いますね。

三国志に登場する人物の姓名に関する秘密とは?

 

ただ早死してしまったか、活躍の場所もなかったのかは不明ですが、

長男と次男は、歴史に名が残ることはかったのでしょう。

 

ただ鍾繇の子であることを考えた場合、

活躍の場所がなかったというのは考えにくいですし、

 

鍾繇が亡くなった後に鍾毓が家督を継いでいる事からも、

おそらくですが二人の兄達は早死してしまったと考えるのが普通だと思います。

 

この時代、本当に一人一人の寿命が短い人が多すぎますから。

諸葛亮(孔明)の北伐に対しての助言

 

227年に諸葛亮が魏を討伐すべく「出師の表」を上奏し、

翌年北伐を開始して祁山へ進出してきます。

 

諸葛亮が祁山へ進出したことで、

天水郡・南安郡・安定郡の三郡も蜀へ寝がえり、魏は危機的状況に陥りました。

 

この時既に曹丕はこの世になく、曹叡が跡を継いだばかりで、

曹叡は自ら兵を率いて出陣し、諸葛亮の軍勢と対峙しようと考えます。

 

この時に鍾毓は曹叡に対して、

 

「曹叡様はどうどうとしていればいいんです。

なぜなら蜀はどうせ撤退するしかなくなるんですから!」と進言。

 

 

曹叡は鍾毓の言葉を受け入れ、結局出陣する事はありませんでした。

 

その後、蜀軍は街亭の戦いで敗れた事で、

魏は天水郡・南安郡・安定郡の三郡を取り戻すことに成功。

 

見事に鍾毓が言っていた事が的中し、この功績により鍾毓は散騎常侍さんきじょうじに任命されています。

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曹爽の蜀討伐に参加

鍾繇の爵位を引き継いた鍾毓ですが、

曹叡の元で真面目に一生懸命に仕事をこなしていきます。

 

そして曹叡が亡くなると、曹叡の遺言により曹爽と司馬懿を補佐する形で、

曹芳が跡を継いで魏の三代目皇帝につきます。

 

曹爽は、実績の面で司馬懿に劣っており、

自分が司馬懿を越えるような功績を作りたいと考え、蜀討伐に乗り出したことがありました。

蜀討伐で威勢を高めようとして威勢を失墜させてしまった曹爽

 

この戦いに大軍を率いて攻め入った曹爽軍でしたが、

蜀の軍勢の前にコテンパンに一蹴されます。

 

この時に曹爽一派の一人として蜀討伐に従っていた一人が鍾毓でした。

 

 

鍾毓は曹爽軍が蜀軍の前に劣勢だった為に退却する事を進言したのですが、

 

その言葉に不快を感じたのかは不明ですが、

帰還後、侍中に左遷させられ、最終的に魏郡太守にまで落とされています。

管輅との出会い

 

鍾毓が魏郡太守だった頃に、

管輅かんろという占い師が鍾毓の元を訪ねてきた事がありました。

 

管輅は当時非常に有名な占い師であり、

犯罪を犯した犯人を当てたり、人の寿命が尽きる日を言い当てたりと、

当時を代表する占い師の一人でした。

 

 

「江南八絶」に数えられた人達にも占いに非常にたけていた人達もいましたが、

彼らが主に呉で活躍した占い師だとすると、

 

管輅は魏で非常に有名な占い師だったのです。

呉を支えた江南八絶(趙達・劉惇・呉範・厳武・皇象・曹不興・宋寿・鄭嫗)

 

 

鍾毓の元を訪ねてきた管輅に対して、

鍾毓は自分の誕生日がいつなのか試しに占わせました。

 

そうすると管輅は、鍾毓の誕生日を少しの狂いもなく言い当てます。

 

鍾毓は、もともと自分の残された寿命を占ってもらうつもりでしたが、

誕生日を的確に当てられたことで怖くなり、寿命を占ってもらう事はなかったそうです。

 

 

その代わりに鍾毓は、

今後平和な世の中になるのかどうかについて質問します。

 

それを聞いた管輅は、曹爽が粛清されるということを告げたそうです。

249年実際に司馬懿のクーデターによって曹爽やその一派は粛清されてしまいました。

 

 

中央から魏郡太守に左遷されられていたこと、

そして管輅の言葉を信じて曹爽一派から距離をおいておいたことで、

鍾毓はこの難から見事に身を守ることができたのです。

 

そして曹爽らが一掃されると、鍾毓は再び中央に呼び戻されて廷尉に就任しています。

李豊・張緝・夏侯玄らの司馬昭排除計画

魏では司馬懿・司馬師・司馬昭と司馬一族の専横が続いていました。

 

その中で254年に李豊や張緝ちょうしゅうが大将軍であった司馬昭を排除して、

代わりに夏侯玄を大将軍にしようと計画を企てます。

 

しかしこの計画が漏れてしまったことで失敗に終わり、

李豊・張緝だけでなく夏侯玄含め三名が捕らえられてしまいます。

 

 

廷尉であった鍾毓は、夏侯玄を取り調べる立場におかれますが、

 

「何も貴方に供述するようなことはない。内容は貴方が好きなように書けばいい」

と鍾毓に言うと、夏侯玄はそれ以上語ることはなかったそうです。

 

そして鍾毓が夏侯玄にとって都合の悪い供述書を書き上げ、

夏侯玄はその供述書の内容を素直に受け入れました。

 

この時鍾毓は、自分の供述書によって夏侯玄の処刑を確定させてしまった事で、

涙が溢れて止まらなかったといいます。

鍾会についてのちょっとした話

ちなみにですけど、

ここで弟の鍾会の話についての記載が残っています。

 

鍾毓が夏侯玄の死に涙したのに対して、

一切の面識もなかった鍾会が処刑が確定した夏侯玄に対して、

 

「処刑決まっちゃったみたいだけど大丈夫なの?」

みたいな感じで失礼な態度をとったそうです。

 

 

しかし夏侯玄は、鍾会を相手にする事はなく、

鍾毓は鍾会の態度が思慮に欠けているときつく注意したという話が残っています。

 

鍾毓と鍾会の二人の対照的な性格が分かる逸話ですよね。

蜀を滅ぼした功績者であり、魏からの独立を夢見た鍾会

その後の鍾毓の人生

 

司馬一族の専横が続くにつれ、

魏皇帝への忠誠を誓っていた者達が反乱を起こしていきます。

 

その最たる例が毌丘倹・文欽の乱&諸葛誕の乱です。

 

 

鍾毓は、毌丘倹・文欽の乱では、

混乱する豫州・揚州に赴いて混乱を治めたといいます。

 

また諸葛誕が反乱を起こした際には、諸葛誕の討伐に従軍。

 

これらの功績から、青州刺史を任されると、

その後は徐州都督を経て荊州都督に任じられました。

 

そして263年の冬頃に天寿を全うすると、

司馬昭はその死を惜しんで鍾毓に車騎将軍を追贈。

 

真面目に一生懸命に生き抜いた鍾毓らしい生涯だなと思ってしまいます。

 

 

ただ鍾毓はある意味で、一番幸せな時に死ねたのかもしれませんね。

 

264年1月に弟の鍾会が独立を企てて反乱したことで、

鍾会の蜀討伐に従っていた鍾毓の子であった鍾邕も、鍾会に巻き込まれる形で死んでいますし。

 

それらを知らずに鍾毓は逝けたのですから・・・

 

 

そして263年の冬といえば、鍾会らが劉禅を降伏させたのが263年の11月なので、

鍾毓が生きている間にその報告を聞いて安心してあの世へ旅立ったという可能性も十分にありますしね。

 

ちなみに鍾会自身も兄であった鍾毓が、

263年の冬に死んだことを最後まで知ることはありませんでした。

鍾毓の子孫達

鍾会が魏からの独立を目指して反乱を計画しますが、

計画は失敗して鍾会は殺されてしまいます。

 

そして鍾毓の子であった鍾邕も鍾会に加算した形になったわけです。

 

 

鍾会の反乱により、

鍾一族は処刑されるのが当時当たり前のことでしたが、

 

生前の鍾繇の功績と生前の鍾毓の功績が大きく加味される形で、

鍾毓の子供達は処刑される事はありませんでした。

 

 

実際、鍾毓の子供達がどのくらいいたかは不明ですが、

 

鍾毅・鍾峻・鍾辿しょうてんの三名は鍾毓の子であったが、当時鍾会が引き取って養育していたことが分かっているので、

鍾邕以外にも最低三名の子供達はまだ生きていたことになりますね。

 

鍾会が反乱を起こして後、この三名は捕らえられて投獄されていますが、

恩赦を受ける形で解放され、官爵も元に戻されました。

鍾毓と司馬昭の逸話

東晋の習鑿歯しゅうさくし習によって編纂された歴史書である「漢晋春秋」には、

鍾毓と司馬昭の次のような逸話が書かれています。

 

 

鍾毓は鍾会の性格をよく知っていたこともあり、

 

「鍾会は頭が良すぎるばかりに調子に乗ってしまう事があるので、

重大な任務を任せるのだけは危険なのでやめて欲しい」

と司馬昭に忠告したことがありました。

 

 

これを聞いた司馬昭は鍾毓に対して笑って次のように答えます。

「もし鍾毓が言うように、万が一鍾会が問題を起こした際でも、

お前の子は全員許してあげるよ。だから気にするな!」

 

そして鍾毓が懸念したように、鍾会が反乱を起こしましたが、

生前に司馬昭が約束したことを守り、鍾毓の子供達は許してあげたというものですね。