劉虞(りゅうぐ)
劉虞(りゅうぐ)は、
劉秀(光武帝)の長男である劉彊(りゅうきょう)の子孫で、
後漢皇帝の血を引いており、
非常に人望も厚かった人物です。
劉備も漢皇帝の子孫だと称していますが、
劉備が胡散臭いのに対して、
劉虞は誰もが認める正真正銘の皇帝の一族でした。
また劉虞は北方民族からも大いに慕われており、
幽州での人望も非常に厚かった人物でもあったのです。
幽州を中心に張純の乱が起こった際は、
張純・張挙を打ち破ったのも劉虞であり、
この反乱に加わっていた鳥丸の丘力居も劉虞に帰順し、
この反乱鎮圧に見事に成功しています。
この功績によって劉虞は、
三公の一つである「大尉」に任命されています。
董卓時代には献帝が劉虞へ大きな期待を寄せ、
「大司馬」に昇級させています。
劉虞VS公孫瓚
公孫瓚は劉虞と仲が悪かっただけでなく、
公孫瓚は袁紹とも仲が悪かったのです。
それに対して劉虞と袁紹は仲が良く、
袁紹は劉虞を新たな皇帝にしようとしたこともありました。
しかし劉虞が最後まで献帝を気遣ったことで、
皇帝を名乗ることはなかったのです。
そういう背景もあったことから公孫瓚は、
幾度となく袁紹と武力衝突していたわけでして・・・
しかし次第に袁紹が優勢になっていったことで、
公孫瓚は追い詰められていくことになります。
そしてこのタイミングで、
公孫瓚によって嫌がらせを受けていた劉虞が怒りを爆発させ、
公孫瓚討伐に出陣したのでした。
公孫瓚討伐に名乗りをあげた劉虞ですが、
上でも述べたように非常に人望が厚かった人物であったことから、
劉虞の元には異民族も含めてかなりの者達が集結します。
その数は十万人を超えるほどだったそうです。
劉虞の意味不明な命令
十万人を超える劉虞の軍勢は、公孫瓚の兵力と比較にならず、
劉虞の圧勝かと誰もが思っていました。
しかしここで劉虞は何を想ったのか、
意味不明な命令を出したのでした。
「敵を傷つけることなかれ!
ましてや殺すなどはもっての他である!
あくまで討伐するのは公孫瓚一人だけだ!!!」
そんな中で始まった戦いですが、
公孫瓚が千人にも満たない数で攻め込んできたのです。
双方の戦力差からも、
公孫瓚も半ば玉砕覚悟の気持ちもあったかもしれませんね。
公孫瓚の突撃に応戦した劉虞軍ですが、
相手を傷つけてはいけないという命令からも、
瞬く間に混乱状態に陥ってしまいます。
そして劉虞軍は逃亡を開始・・・
また敗北が決まっただけでなく、
総大将であった劉虞までもが捕らえられてしまったのでした。
公孫瓚の無理難題な要求×劉虞の最後
公孫瓚はこれまでの劉虞との関係からも、
劉虞を許して釈放する気なんてさらさらありませんでした。
その為に劉虞を処刑するために、
無理難題の要求してきます。
「お前にチャンスを与える!
世間ではお前は皇帝になれるほどの人物だと言われているのだから、
雨を降らすこともできて当たり前だろう!?
見事に雨を降らすことができれば許すが、
もしも雨を降らすことができなかったならば処刑してやる!!」と・・・
当たり前ですが、
雨がそんなすぐに降るわけはありません。
結果として劉虞は処刑!
しかし劉虞を処刑した事で、
公孫瓚の立場は非常に悪化していくことになるのでした。
劉虞に帰順していた異民族も、
公孫瓚に対して反発!!
そして公孫瓚と袁紹の武力衝突は激化し、
敗れた公孫瓚は自害して果ててしまったわけですね。