曹髦(そうぼう/彦士)

曹髦は、曹丕・曹叡・曹芳に次いで魏の第四代皇帝となった人物です。

 

高貴郷公こうききょうこうとして知られ、即位後は魏王朝の皇帝となりました。

父は魏の曹丕の子である曹霖そうりん(東海定王)であり、曹操の孫にあたります。

 

 

当時の魏では、司馬懿の死後、

その子である司馬師・司馬昭兄弟が政治と軍事の実権を掌握していました。

 

そのため曹髦は名目上の皇帝に過ぎませんでしたが、

若くして学識に優れ、王朝再興への志を抱いていた人物として知られています。

 

後世においては、

  • 魏最後の気骨ある皇帝
  • 司馬氏に敢然と立ち向かった悲劇の君主

として高く評価されています。

曹芳廃位&曹髦即位

嘉平六年(254年)、皇帝曹芳が司馬師によって廃位されると、

新たな皇帝を擁立する必要が生じました。

 

司馬師は当初、曹操の子である曹拠(彭城王)を即位させようと考えていました。

 

しかし郭太后がこれに反対し、

「先帝の血統から皇帝を選ぶべきである」と主張したため、

高貴郷公であった曹髦(当時14歳)が皇帝に選ばれることとなりました。

 

「魏志」三少帝紀(高貴郷公紀)によれば、曹髦は幼い頃から聡明で才能に恵まれており、

学問を好み、かつ立派であった(少好学、夙成。)と記されています。

 

 

また曹髦は歴史や政治について臣下と盛んに議論を行いました。

 

王沈・裴秀・司馬望・鍾会らを宮中に招き、

文学や歴史、政治について意見を交わしたことが記録に残っています。

 

ある時、歴代の名君について議論した際には、夏王朝を再興した少康を高く評価しました。

これは衰退しつつあった魏王朝を立て直したいという、自身の強い願いを反映していたとも考えられています。

 

若年ながら優れた見識を備えていたことから、

多くの人々が魏王朝再興の希望を彼に託していました。

皇帝でありながら実権を持てなかった現実

ただ実際の政治権力は司馬氏が握っていました。

 

正元二年(255年)、毌丘倹と文欽が司馬師に対して反乱を起こした際、

曹髦は司馬師の死後に生じた政治的混乱を利用し、失われた皇帝権力を取り戻そうと試みます。

 

司馬昭に対し許昌へ留まるよう命じ、その軍隊のみを洛陽へ帰還させようとしました。

しかし重臣の傅嘏らが司馬昭を支持したため、この計画は失敗に終わりました。

この出来事は、皇帝である曹髦の命令であっても実行されないほど、司馬氏の権力が強大になっていたことを示しています。

-潜龍詩-

甘露年間、洛陽では「井戸の中に龍が現れた」という噂が広まりました。

群臣の多くはこれを吉兆として喜びましたが、曹髦は異なる見方を示します。

「龍とは本来、天や大地に現れるものであり、

井戸の中に閉じ込められている状態は決して良い兆しではない」

 

さらに曹髦は『潜龍』という詩を作り、

自らの境遇を井戸の中に閉じ込められた龍になぞらえました。

 

これは、皇帝でありながら権力を失い、

司馬氏に抑え込まれている自身の立場を暗示したものと考えられています。

-司馬昭の心、路人も知る(司馬昭之心、路人皆知也)-

甘露五年(260年)、曹髦はついに決断を下します。

 

側近である王沈・王業・王経らを呼び寄せ、

「司馬昭の心は、道を行く人でさえ知っている。(司馬昭之心、路人皆知也)」と語りました。

 

 

さらに曹髦は、

「このまま廃位される辱めを受けることはできない」

と述べ、司馬昭討伐を決意しました。

 

王経は成功の見込みがないことを理由に強く諫めましたが、

曹髦の決意が揺らぐことはありませんでした。

甘露の変 -皇帝自ら剣を取る-

甘露五年(260年)五月、曹髦は自ら剣を手に取り

宮中の従者や近臣数百人を率いて出撃しました。

 

しかし、この計画は王沈と王業が司馬昭側に通報していた為に、事前に司馬昭側へ漏れていました。

 

司馬昭の腹心であった賈充は兵を率いて迎撃にあたりましたが、

当初、兵士たちは皇帝に刃を向けることを恐れていました。

 

しかし賈充は、次の言葉をかけて曹髦殺害を命じます。

「司馬公がお前たちを養ってきたのは今日の為である。

またこの事で後日罪に問う事もない。」

 

すると部下の成済が槍を突き出し、曹髦を刺殺しました。

「晋書」文帝紀によれば、その槍は身体を貫通したとされています。

 

この時、曹髦はわずか二十歳に過ぎない年齢でした。

曹髦の死後

曹髦の死後、司馬昭は実行犯である成済に責任を負わせ、

約束を反故にし、一族ごと処刑しました。

 

また、密告に加わらなかった王経も処刑されてしまいますが、

この時に母親と共に交わした言葉が今に伝わっています。

王経が母に不孝を詫びた。

「母上の言葉に従わなかったばかりに、このような末路に・・・」

 

王経の母「昔にお前を引き留めたのは、相応しい死に場所を得られないのではないかと心配したからであって、

今ここで死ぬはめになった事で、どうしてお前を恨むことなどありましょうか」

 

この時に王経の母は微笑んで上のような言葉を王経に返したと、

「魏志」夏侯尚伝(付 夏侯玄伝 裴松之注「漢晋春秋」)記録に残されています。

一方で実際に殺害を命じた賈充は処罰されていません。

 

この時に司馬孚(司馬懿の弟)や陳泰は、

曹髦の遺体を抱いて涙を流したと「魏志」陳羣伝(付 陳泰伝 裴松之注「魏氏春秋」)に残されています。

 

また陳泰は司馬昭に対し、

「賈充を処刑しなければ天下に謝罪することはできません。」

と進言しましたが、受け入れられることはなく、曹髦殺害を命じた賈充が罰せられる事はなかったのです。

曹髦の後世における評価

曹髦は魏末期の皇帝の中でも、

特に優れた資質を持っていた人物と考えられています。

 

しかし、彼が即位した時には既に司馬氏が国家の実権を掌握しており、

皇帝権力だけでは状況を覆すことはできませんでした。

 

それでも曹髦は運命に屈することなく、

自ら剣を取り、最後まで皇帝としての責務を果たそうとしました。

 

そのため曹髦は、中国史上において「敗れながらも節義を貫いた皇帝」として高く評価されています。

 

正史における曹髦とは、単なる傀儡皇帝ではなく、

魏王朝最後の尊厳を守ろうと命を懸けて戦った若き皇帝だったのです。