朱儁(しゅしゅん、字:公偉)

朱儁は黄巾討伐の英雄でありながら、

董卓・李傕・郭汜らが跋扈する後漢末の激動期において、

最後まで「漢王朝の臣」として生きようとした人物です。

 

以下では、単なる年表ではなく、「後漢末の忠臣・朱儁の生涯」という流れで、

正史(主に『後漢書』朱儁伝・『三国志』)を基準に記載しています。

 

朱儁は、揚州会稽郡上虞県の出身で、字を公偉といいますが、

幼い頃に父を亡くし、家庭は貧しい暮らしを余儀なくされました。

 

母が内職をして家計を支える中、朱儁は孝行心が深く、

また義理を重んじる人物として周囲から評価されていました。

 

彼は財産への執着が薄く、困っている者を助けることを好みました。

ある時、同郡の人物である周規が、中央から招きを受けて都へ向かうことになりました。

しかし、旅費や準備金が不足していたため、朱儁は母の財産を密かに持ち出し、それを周規へ渡しました。

 

母からは叱責されましたが、朱儁は、

「小さな財を失っても、大きな義を成すことができます」

と答えたといいます。

 

この逸話は、朱儁が若い頃から目先の利益よりも、人との信義を重視していたことを示しています。

その後、県の役人として仕え、能力を認められて徐々に昇進していきました。

主君の危機を救った若き官僚

朱儁は地方官として勤務する中で、判断力と行動力を示します。

 

揚州刺史の臧旻が、許昭という反乱勢力の討伐に失敗した太守・尹端を処罰しようとした際、

朱儁は尹端の功績や事情を考え、密かに都へ赴きました。

 

そして役人へ働きかけ、上奏内容を修正させることで、

尹端の刑罰を死刑から労役刑へ減刑することに成功します。

尹端は命を救われましたが、最後まで誰が助けたのか知ることはありませんでした。

 

この出来事からも、朱儁は表立って名声を求めるのではなく、陰ながら人を救う人物であったことが分かります。

南方の反乱を鎮めた名将

やがて朱儁は孝廉に推挙され、蘭陵県令となります。

その行政能力が評価され、交州で発生した大規模な反乱への対応を任されました。

当時、交趾では梁龍らが反乱を起こし、南海太守まで反旗を翻す状況となっていました。

 

朱儁はまず敵情を詳細に調査し、無謀な突撃を避けました。

そして故郷で兵を集め、十分な準備を整えた上で進軍を試みます。

 

さらに交州各地の兵力を結集し、反乱勢力を分断して撃破しました。

最後には反乱指導者の梁龍を討ち取り、交州の秩序を回復します。

 

この功績によって朱儁は都亭侯に封じられ、中央政界へ迎えられました。

黄巾の乱 -皇甫嵩と並ぶ後漢最大級の討伐将軍-

光和7年(184年)、中華全土を揺るがす黄巾の乱が発生します。

張角を中心とする太平道の信徒たちは、腐敗した後漢政府に対して大規模な反乱を起こしました。

 

朝廷では対応策が議論され、その中で朱儁は皇甫嵩とともに討伐軍の指揮官に抜擢されます。

朱儁は右中郎将、皇甫嵩は左中郎将となり、二人は各地の黄巾軍討伐へ向かいました。

 

この時、朱儁は後に江東で大勢力を築くことになる孫堅を配下として迎えています。

孫堅はこの戦いで武名を高め、後の「江東の猛虎」と呼ばれる基礎を築くことになります。

南陽黄巾を撃破

朱儁は皇甫嵩とは別方面で戦い、特に南陽方面の黄巾軍討伐で大きな功績を挙げました。

南陽郡では趙弘・韓忠・孫夏らが勢力を維持していました。

 

朱儁は長期間にわたる包囲戦を展開し、慎重に敵の戦力を削りました。

激しい戦闘の末、趙弘を討ち、韓忠を降伏させ、最後には孫夏の撃破にも成功しています。

黄巾軍最大級の勢力の一つであった南陽方面を平定しました。

 

この功績により、

  • 右車騎将軍
  • 光禄大夫
  • 銭塘侯

などの地位を与えられ、後漢を代表する名将として知られるようになります。

董卓の専横に抗った漢の忠臣

黄巾討伐後も朱儁は官界で重きをなし、河南尹など重要職を歴任しました。

しかし時代は大きく変化します。

 

189年(中平6年)、霊帝が崩御すると、董卓が洛陽へ入り、朝廷の実権を掌握しました。

董卓は朱儁を表面上は厚遇しましたが、内心では警戒していました。

 

朱儁もまた、董卓の専横を認めませんでした。

特に董卓が計画した長安遷都には強く反対します。

董卓は朱儁を自身の側に置こうとしましたが、朱儁はそれを拒否しました。

 

やがて董卓と袂を分かち、反董卓勢力との連携を模索します。

乱世の中で「漢」を守ろうとした最後の戦い

董卓が長安へ去った後、朱儁は洛陽に残り、

各地の諸侯と連絡を取りながら董卓打倒の機会を探りました。

一時は荊州の劉表を頼るなどして勢力を整え、再び洛陽方面へ戻ります。

 

その後、陶謙・孔融ら多くの人物から支持を受け、献帝を迎える計画にも関わりました。

しかし、李傕・郭汜が長安で実権を握ると、朝廷から召還命令が届きます。

 

朱儁は、

「天子から召された以上、臣として応じるべきである」

と考え、危険を承知で長安へ向かいました。

 

これは、彼が最後まで漢王朝への忠誠を捨てなかったことを示しています。

乱世に疲れ果てた忠臣

初平4年(193年)、朱儁は太尉・録尚書事に任じられ、後漢政府の最高位級の官職に就きます。

しかし、李傕・郭汜による長安政権は、もはや正常な政治とは呼べない状態でした。

 

興平元年(194年)、朱儁は驃騎将軍となります。

その後、李傕と郭汜の対立を調停しようとしますが、郭汜によって人質にされてしまいます。

 

朱儁はもともと剛直な性格であり、

この屈辱と混乱に耐えられず、興平二年(195年)に病を発して亡くなりました。

 

 

この時代、自ら権力を握ろうとする者が多く現れました。

その中で朱儁は、最後まで「漢の臣」であることを選び続けた人物でした。

 

後漢末の英雄たちが天下を奪い合う時代にあって、

朱儁の生涯は、滅びゆく王朝を支えようとした一人の忠義の将軍の物語だったと言えるでしょう。