侯音に捕らえられた東里袞(とうりこん)

 

東里袞は曹操に仕えた人物で、南陽太守を任されていた頃、

関羽が名将曹仁が守る樊城へ攻め込みます。

 

この時、東里袞は南陽太守として曹仁を支援していましたが、

 

曹仁軍も大変な苦戦を強いられていたことから、

軍役の重さに疲労困憊になっていた農民達の状態を見るに見かねて、

南陽郡の宛城を守っていた侯音(こうおん)が関羽の北上に呼応する形で反乱を起こします。

 

侯音はそのまま宛城を制圧。

そして南陽郡を任されていた東里袞を襲い、最終的に捕まってしまいました。

 

 

記録は詳細に残っていませんが、

東里袞は南陽郡の新野城を守っていたんじゃないかなと想像しています。

 

その新野に侯音が襲い掛かり、宛城の混乱が新野城でも広がり、

東里袞がそれを収集する事ができず逃げ出し、最終的に捕まった感じかなと。

宗子卿(そうしけい)によって助けられた東里袞

捕縛した東里袞をどうしたものかと考えていた侯音ですが、

 

宗子卿が侯音に対して、

「軍役に苦しんでいる農民達の為に立ち上がったのは良い事だと思いますが、

 

南陽太守であった東里袞を人質にして立て籠もるのは、

道義に反していると思いますよ。

 

この際、東里袞を解放してはどうですか?

そして一緒に戦いましょう!」

 

これを聞いた侯音は、「最もな話だ!」と納得し、東里袞を解放。

 

 

しかし宗子卿は、侯音が反乱を起こした理由は理解できるものの、

やはりこの反乱がうまくいくはずがないと思ったのか分かりませんが、

 

東里袞が釈放されたのを確認すると、

その日の夜に宗子卿も宛城から逃げ出してしまいます。

 

そして解放された東里袞に合流して東里袞と協力。

二人は敗残兵をまとめて、侯音が立て籠もる宛城へ攻め込で包囲。

 

 

その後、樊城の曹仁が関羽との戦いの間をついて、

東里袞らの援軍として駆けつけ、宛城は落城。

 

反乱の首謀者であった侯音は捕らえられ、処刑されてしまいます。

曹仁なくして曹操なし

曹仁と関羽が対峙していたという記録に対する疑問

関羽と曹仁が樊城で対峙していたみたいですけど、

実際に戦っていたのかはかなり疑問が残りますけどね。

 

侯音は実際4か月の間、曹仁は多くの兵力を率いていたにもかかわらず、

曹仁の攻撃を耐え抜いてるからです。

 

 

もし曹仁が本当に関羽と対峙していて、戦いの最中であったならば、

 

樊城の多くの兵を率いて4か月も関羽を無視して、

宛城攻撃に専念してるってのは少し無理がある気がします。

 

そして宛城を中心に南陽郡の多くが、

関羽に味方していたというのが自然だと思うので。

 

 

もし関羽が侯音の反乱を利用しなかったとなるとただの阿保です。

というか多分利用してないでしょう。

 

結局侯音の反乱が鎮圧されて後、

樊城に戻った曹仁と関羽が戦っている感じですし。

 

まぁそう考えると関羽が呂蒙・陸遜らに背後を襲われて、

死んでしまったのも自業自得だと思います。

 

この時の侯音の反乱を利用する事が、どれだけ未来の可能性を秘めていたか・・・

関羽に捕らえられた東里袞

関羽と曹仁の戦いの疑問は残りますが、

そこをつきつめると話がだいぶずれていってしまうので、

 

侯音の反乱を鎮圧した曹仁が、急ぎ樊城へ帰還したということで、

話を進めていきたいと思います。

 

 

曹仁らの救援もあって、東里袞は侯音の反乱を無事に鎮圧できたものの、

樊城の状況は悪くなっていき、関羽に完全に包囲される有様。

 

曹仁の危機を救うべく、

曹操は于禁に命じて樊城へ急いで向かわせました。

 

この時に東里袞は、于禁に従って関羽救出に向かっています。

しかしこの時の長雨が原因で于禁軍があっさり壊滅。

 

かろうじて生き残った于禁・東里袞は関羽に降伏。

東里袞は侯音から解放されたのも束の間、今度は関羽の捕虜になってしまったわけです。

孫権に捕らわれてしまった東里袞

その後、関羽が呂蒙・陸遜らに背後を襲われて敗北すると、

関羽の捕虜であった于禁・東里袞らは、そのまま孫権に捕らえられてしまいます。

 

それからしばらくして、

于禁・東里袞は孫権に解放されて魏へ帰国するわけですが、

曹操は既に亡くなっており、曹丕が跡を継いでいました。

 

この時、于禁や東里袞と共に解放された浩周(こうしゅう)という人物がいましたが、

浩周も于禁と共に出陣しており、于禁・東里袞と共に捕らわれていたわけです。

 

218年に侯音に捕らえられ、孫権に解放されたのが221年なので、

たった3年間の間に東里袞は3度も敵の捕虜になってたことになるんですよね。

 

それだけ当時の荊州の情勢は、激動の渦の中だったのでしょう。

帰国後の東里袞

 

帰国した于禁は、たった3年の間に于禁は白髪・白髭になっており、

 

げっそりやつれた様子で疲れきっており、

3年前の于禁の面影はなくなっていたといいます。

 

最後は曹丕にいじられて、それが元で帰国した年に亡くなっています。

たった一度の失敗で不幸な末路を迎えた悲しい将軍、于禁

 

また帰国した東里袞・浩周は、曹丕に謁見した際に、

曹丕は孫権について尋ねたそうです。

 

「孫権はこちらに従う意思はあるのか?

また皇太子である孫登を人質として差し出す気はあるのか?」

曹丕のこの問いに対して、東里袞と浩周は答えます。

 

東里袞「孫権は曹丕様の臣下として従う事はないでしょう」

浩周「孫権は曹丕様の臣下として従うでしょう」

 

 

孫権はその後も魏に臣従するそぶりは見せるものの、

孫登を人質として差し出すことは最後までありませんでした。

 

浩周はこのことで、曹丕から信用されなくなったといいます。

 

また見事に孫権の心を読み取った東里袞はというと・・・

その後についての記録は残っていません。

 

 

侯音・関羽・孫権と立て続けに捕虜になってしまった東里袞ですが、

なんだかんだで殺されることなく魏に仕え続けたというのはなかなかの強運の持ち主だなと思いますね。