曹操と共に歩む道を選んだ曹仁

曹仁そうじんは建寧元年(168年)に、

曹操の祖父にあたる曹褒(曹騰の兄)の孫として誕生しています。

 

ここでは深くは触れませんが、宦官である事で知られる曹騰ですが、

四人兄弟の末子であり、三人の兄がいたとされています。

 

あざなである「伯興」「仲興」「叔興」のみがかろうじて分かる程度になってますね。

 

その中で一応曹褒は、次兄である「仲興」ではないかとされています。

 

 

素性がはっきりしていない人物が多いこの時代の中にあって、

曹仁については色々と分かっている情報も多いです。

 

ちなみに父親が曹熾そうしであり、弟が曹純でもありますね。

ただ父親を早くに亡くしており、曹純とも別居して過ごしていたようです。

 

 

曹仁は曹操にとって従弟にあたり、「魏志」曹仁伝には、

「弓術・馬術・狩猟を好んでいた」と記録が残されています。

 

 

そんな曹仁ですが、多くの群雄が割拠していくと、

曹仁もまた千人余りの若者を集めて徐州の淮水あたりの地域で暴れ回っていたようです。

 

そしてその後に曹操に従ったようで、

その際に曹仁は曹操から別部司馬に任じられています。

 

 

曹操は曹仁を非常に信頼しており、曹仁も大事な戦いには常に参加しており、

その中にあって確実に結果を出し続けていくことになります。

各地での大活躍

初平四年(193年)に曹操が袁術討伐を行った際には、

曹仁多くの兵士を討ち取り、多くを捕らえる活躍を見せています。

 

その数はかなりのものだったといいます。

 

 

また曹操の父である曹嵩が徐州で殺害されると、

曹操は陶謙討伐に乗り出すわけですが、この時の先鋒を務めたのが曹仁でもありました。

 

そして陶謙軍の大将を任されていた呂由を打ち破ってもいます。

 

 

そもそもこの時の曹仁は騎兵を率いていたということですので、

曹操軍にとっては間違いなく主力部隊であったでしょうね。

 

勿論曹仁の騎兵部隊と同様に、

曹操軍に加入したばかりの青州兵も暴れに暴れたようですが・・・

 

 

興平元年(194年)になると、呂布討伐に乗り出し、

今度は呂布の大将であった劉何を生け捕りすることに成功しています。

 

 

そして今度は劉表と繋がりがある張繍討伐に乗り出した際には、

別動隊を率いて近隣の県を攻撃し、三千人を捕虜としたわけですが、

 

この戦いの中で曹操が張繍・賈詡の罠にかかってしまったことで敗れると、

曹昂・曹安民・典韋などを失うものの、

 

曹仁は追撃してきた張繍軍の撃退に成功していたりします。

袁紹&高幹との戦い

建安五年(200年)に曹操と袁紹が官渡の闘いで激突した際には、

 

袁紹に命じられた劉備が攻撃をしてくると、

多くの諸県を袁紹側に引き込む事に劉備は成功していますが、

 

これに対応したのが実は曹仁でもありました。

 

 

曹仁は曹操に対して次のように語りました。

「劉備が率いている軍は、もともと袁紹の兵なので、

劉備もうまく使いこなせないでしょう」

と言うと、劉備を攻撃して勝利を掴んだけでなく、

袁紹側に寝返った諸県の全ての奪還にも成功したといいます。

 

 

また袁紹が西方のをの遮断するように韓猛に命じた際には、

 

曹仁が韓猛の動きに対応し、

鶏洛山にて韓猛の撃破にも成功していますね。

 

 

そして最終的に鳥巣の食糧庫の焼き討ちに曹操が成功すると、

官渡の戦いは曹操軍の勝利で幕を下ろしたのでした。

 

 

 

205年には、袁紹軍残党の高幹の籠城する壷関(こかん)を包囲した際、

曹操は「敵は一人残らず穴埋めにせよ!」と布令しますが、

これを聞いた高幹軍は徹底的に交戦し、陥落させることができませんでした。

 

そんな時に、曹仁が曹操に次のようにいいます。

「城(砦)を囲む際は、

必ず生き残れる道を残しておくべきものです。

 

 

ただでさえ堅固な城であり、

確実に殺されると分かっていれば、

 

相手は最後まで必死に抵抗するので、

それはあまり良い事ではありません。」

 

 

そして曹操は曹仁の進言を採用し、逃げ場を造った事で、

潼関の多くの者達が降伏や逃亡した事で攻略に成功したのでした。

 

 

また反乱の首謀者であった高幹は、

なんとか逃げることに成功するかと思われた矢先に、

 

荊州へともう一歩のところで、曹操配下の王琰に捕まって処刑されています。

江陵防衛戦での活躍(曹仁VS周瑜)

赤壁の戦いで大敗を喫した翌年の209年、

周瑜らは曹操領(元劉表領)であった荊州討伐に乗り出しますが、

 

この際に江陵の守りを任されていたのが曹仁でした。

 

 

この戦いの中で牛金が周瑜の軍勢に包囲されてしまう事がありました。

 

この時に曹仁は陳矯ら周囲の反対を押し切って、

 

選りすぐりの数十騎を選抜して突撃すると、

見事に牛金を救い出す事に成功しています。

 

この際に失った曹仁の兵士は数人だけだったといいます。

 

 

無事に牛金を救い出して帰還した曹仁の姿を見た陳矯らは、

 

「将軍は真に天上界の人物ですね。」

と驚いたと同時に、曹仁の勇ましさに心服したのでした。

 

 

これらのこともあったこともあり、

曹仁らは結束して周瑜の軍勢に立ち向かったこともあり、

不利な状況で約一年にわたって江陵城を守り通していますが、

 

最終的には江陵城を捨てて撤退していますね。

 

 

ちなみにこの戦いの中で周瑜は右腹に流れ矢を食らっており、

最終的にその傷が悪化したことで周瑜は亡くなったとも言われています。

潼関の守護神(曹仁VS馬超・韓遂ら関中十部)

江陵の戦いから約四年の月日が過ぎた211年、

涼州南部で馬超・韓遂ら関中十部の豪族らが反乱を起こした際には、

 

曹操から曹仁は潼関どうかんの守りを任されますが、期待に応えて潼関を守り通しています。

※関中十部=馬超・韓遂・楊秋・侯選・程銀・成宜・梁興・李堪・張横・馬玩

 

その後に曹操が馬超・韓遂らの討伐に乗り出すと、

潼関の戦いで見事に打ち破り、反乱の駆逐に成功しています。

 

 

反乱を起こした多くの者達の半数近くが討ち取られたりしていきますが、

楊秋は曹操に降伏後に大きく出世を果たしているのは余談です。

  • 馬超→最終的に妻子(閻圃妻になり、息子は処刑)・部下を捨て劉備の元へ。
  • 韓遂→四年後に部下に殺害される。
  • 楊秋→降伏後は、討寇将軍・位特進(三公に継ぐ程の名誉職)を経て臨涇侯に…
  • 成宜・李堪→潼関討死。
  • 梁興→翌年討死。
  • 侯選・程銀→後に降伏。
  • 張横・馬玩→不明。

 

そればかりか曹丕が曹操の跡を継いだ220年には、

臣下の者達が漢王朝(献帝)から禅譲を受けるように勧めた

「魏公卿上尊号奏(公卿上尊号奏)」

という四十六名の臣下が名を連ねているわけですが、

 

この中で楊秋は、上から八番目に名が載っていたりします。

「魏公卿上尊号奏(四十六名)」について

樊城の守護神(曹仁VS関羽)

曹操は荊州の動向が不穏になってくると、

曹仁に荊州方面の守りとして樊城に曹仁を置いています。

 

侯音が宛城で反乱を起こした際には、これを討伐したのも曹仁でした。

 

この時に曹仁は征南将軍に任じられているのは余談です。

 

 

その後に関羽が襄陽城・樊城に攻め込んでくると、

曹仁は樊城にて迎え撃つものの、守備兵も少なく不利な状況だったといいます。

 

 

曹操は于禁に七軍を率いさせて援軍へと向かわせますが、

天候が関羽に味方した事もあり、于禁の軍勢は長雨による洪水によって大被害を被り、

 

関羽へとあっさりと降伏してしまう事態に・・・

 

 

また樊城の外で陣を敷いていた龐徳もまた洪水に巻き込まれた一人で、

孤軍奮闘するも捕らえられて処刑され・・・

 

 

 

そして曹仁が守る樊城も例外ではなく、

樊城も半ば水没してしまう事態となってしまいます。

樊城の兵士も数千程度であり、備蓄食料も少なく、危機的な状況でもありました。

 

しかしその中になって曹仁は諦めず、

兵を鼓舞して士気を上げ、満寵と共に樊城を守り通す事に成功しています。

 

 

最終的に関羽の軍勢が樊城から撤退せざるをえなくなったのは、

 

徐晃によって関羽が敗北してしまった事、

そして江陵城が呂蒙・陸遜らによって打ち破られていたからでもあります。

 

まさに曹仁の粘り勝ちといった所だったでしょうね。

大将軍、そして大司馬にまで上り詰めた曹仁

建安25年(220年)に曹操がこの世を去ってしまうと、

 

曹丕は曹仁を車騎将軍に任じ、

都督荊揚益州諸軍事を任せ、陳侯に封じています。

 

ちなみにこの時に曹仁の父親である曹熾に対しても、

陳穆侯が追贈されていますね。

 

 

ちなみにまだ曹操が生存していた際に、

曹彰が鳥丸賊・鮮卑族の討伐に命じられたことがあったわけですが、

 

鄴にいた曹丕は討伐に出陣する曹彰に対して

「大将となって法を遵法する事、

征南将軍(曹仁)のようであれ!!」

と述べた事があり、曹丕の曹仁を高く評価していた事がうかがえる逸話となっています。

 

 

話を戻しますが、曹操が亡くなった事につけ込んで、

呉の軍勢が襄陽へと攻め込んできたわけですが、

 

この時に襄陽城や樊城に食糧が確保できてないかった事からも、襄陽城を捨てる形をとっていますね。

 

結果として襄陽城は孫権によって奪われてしまうわけですが、

その後に曹仁は徐晃と共に襄陽城奪取を成功し、見事に奪い返しています。

 

 

そして曹仁は夏侯惇の跡を引き継ぐ形で大将軍に任じられます。

 

その後に臨潁に移屯を命じられる事になるわけですが、

その際に大将軍に代わり、大司馬に任じられる事に・・・

曹仁の最期

曹丕は孫権が臣従を誓って近づいた際に、

皇太子であった孫登を人質として送るように命じますが、

 

孫権がその命令に従う事がなかった為に、夷陵の大戦後をつくような形で、

三方面から呉へと侵攻を開始したのでした。

 

 

この際に曹仁は濡須口への侵攻を任されています。

  • 濡須口(曹仁など)
  • 洞口(曹休・張遼・臧覇など)
  • 江陵(曹真・夏侯尚・張郃・徐晃など)

 

ただ濡須口攻略を任された曹仁ですが、

圧倒的に兵力的にも勝っていたにも関わらず、朱桓に撃退されてしまいます。

 

 

ただこの戦いの直後に急死している事を考えても、

おそらく曹仁は病気を患っていた可能性も高いと個人的には考えています。

 

実際にこの濡須口の戦い(第三次)で朱桓の守る濡須城へと攻め込んで敗れたのは、

曹仁というより、息子である曹泰だからですね。

 

 

兎にも角にも長らく曹操・曹丕を支え続けた曹仁でしたが、

先程も軽く述べたように、この濡須口の戦い直後に病死しています。

 

 

曹仁は「忠侯」と諡名が与えられ、

後に曹叡によって、曹仁は夏侯惇・程昱と共に曹操の廟庭に祀られています。

 

 

その後も曹操の廟庭には、

22人の人物(合計25人)が合祀されていますが、

 

その最初の三人のうちの一人だった事を考えても、

曹仁の功績がどれほどまでに大きかったのが窺い知れる逸話の一つでしょうね。

 

〈参考までに合祀された人物一覧〉

233年(曹仁・夏侯惇・程昱)

243年 (夏侯淵・曹洪・曹休・曹真・夏侯尚・張遼・楽進・張郃・徐晃・

李典・臧覇・文聘・典韋 ・朱霊・龐悳・鍾繇・陳羣・華歆・王朗・桓階)

244年(荀攸)

262年(郭嘉)

孫権からの信頼も厚かった濡須口の守護神、朱桓