野望を露にした公孫淵
幽州の西側にある遼東半島を中心に、
長らく地盤を維持するきっかけを作ったのが公孫度になりますが、
公孫度がこの世を去ると、息子の公孫康が跡を継ぎ、
公孫康が亡くなると、公孫恭(公孫康の弟)が跡を引き継いでいます。
ちなみにですが公孫瓚とはまた別の一族になります。
「公孫」という由来は、「公や諸侯の孫」の者が名乗った事で多く誕生した姓の一つですし、
後漢末期には「公孫」の姓を持っていた人物はそれなりにいた感じですね。
また公孫度・公孫康・公孫恭・公孫淵などを、
一般的に「遼東公孫氏」と呼ぶわけですが、
一方で公孫瓚を「遼西公孫氏」と呼んで分けたりしますね。
公孫度・公孫康・公孫恭の時代は、
なんだかんだと曹魏に逆らう事がない道を歩んでいたわけですが、
公孫康の息子であった公孫淵が成長すると、
叔父にあたる公孫恭から遼東太守の座を奪ってしまいます。
公孫淵の野心はそれだけにとどまらず、肥大化していく事になるのですが、
それがきっかけで破滅の道を歩むことになろうとは、この時の公孫淵は知る由もなかったのでした。
二股外交(魏呉)
公孫淵は魏に従属している形を取りながらも、
孫権とも繋がり、孫権から「燕王」の称号を貰ったりしています。
これが嘉禾二年(233年)の話になります。
ただ孫権にとっても公孫淵と手を結ぶ事にはきちんとした意味があり、
後方で魏を脅かす勢力として利用したわけですね。
かつて夷陵の戦い後に雍闓を益州刺史に任じて、反乱を起こさせたのと似たような感じだと思います。
利用できる者は適当に利用しようといった感じでしょう。
つまり公孫淵が燕王の称号を頂いたことで、
形式上中国に四つの王朝が誕生した事を意味しますね。
- 曹叡(魏皇帝)
- 劉禅(蜀皇帝)
- 孫権(呉皇帝)
- 公孫淵(燕王)
ただ燕王に封じられた直後に、
呉の使者としてやってきていた張弥(張彌)・許晏・賀達らを殺害し、
その首級を魏に差し出した逸話もあったり・・・
ちなみにこの時の功績により、
曹叡から大司馬・楽浪公に任じられていますね。
公孫淵と結ぶことの議論については、孫権と張昭が言い争った話は有名で、
頑固者の二人だったこともあり、最終的に孫権が張昭の家に火をつけたりしています。
孫権「公孫淵に使者を送るべきである」
張昭「公孫淵に使者を送る意味はない」
独立国「燕」
曹叡は公孫淵を大司馬・楽浪公に任じるも、
魏呉を股にかけた二股外交の事なども含め、
曹叡は公孫淵を全く信用していない状態でもあったわけですね。
そこで景初元年(237年)に、
曹叡は公孫淵に対して一度首都であった洛陽まで訪ねてくるように、
幽州刺史の毌丘倹に伝えさせたのでした。
そして毌丘倹から洛陽まで来るように命令を受けた公孫淵でしたが、
公孫淵はその命令に応じることはなく、毌丘倹に対して牙を剥き出しにしたのでした。
毌丘倹は「魏志」毌丘倹伝がある人物で、この時の事が記録に残されているわけですが、
他にも「魏志」公孫淵伝(正確には祖父の公孫度伝)ばかりか、
「魏志」明帝紀にも記録が残されています。
-「魏志」毌丘倹伝-
公孫淵逆與儉戰 不利引還 公孫淵と毌丘倹が戦ったが、不利となった為に毌丘倹は撤退した。 |
-「魏志」公孫度伝(その中の公孫淵伝)-
淵遂發兵 逆於遼隧 與儉等戰 儉等不利而還 兵を発した公孫淵は遼遂の地でで毌丘倹と戦い、不利となった毌丘倹は撤退した。 |
-「魏志」明帝紀-
淵發兵反 儉進軍討之 會連雨十日 遼水大漲 詔儉引軍還 公孫淵は兵を発して背いたので、毋丘倹が討伐軍を起こした。 しかし雨が十日間にわたって続き、遼水が氾濫してしまったので、詔をもって毋丘倹を撤退させた。 |
上記を見て頂くと分かりますが、
「魏志」毌丘倹伝&「魏志」公孫度伝(公孫淵伝)の内容は、
「毌丘倹が不利になった為に撤退した」と簡潔にまとめられていますね。
一方で「魏志」明帝紀では、
「長雨によって遼水が氾濫したことで、
曹叡が毌丘倹を撤退させた」
というふうに書かれてあるので、意味合いが少し変わりますね。
ただそれぞれの記載されている内容を尊重して、
全てを綺麗に繋げるならば、次のような感じなります。
公孫淵が従わずに兵を起こしたので、毌丘倹が公孫淵討伐に乗り出した。
しかし十日間にわたる長雨により遼水が氾濫してしい、 不利となった毌丘倹に対して曹叡が詔を発して撤退させた。 |
とにもかくにも毌丘倹に勝利した公孫淵は、燕王を正式に自称し、
元号を「紹漢」とし、曹魏への完全な宣戦布告としたのでした。
ちなみに感じから想像できるかもしれませんが、
「紹漢には、漢を継いだ国ですよ」
といった意味が含まれているわけですね。
公孫淵の最期(司馬懿出陣)
公孫淵の反旗が明らかになると、
曹叡は司馬懿に四万人の兵を預けて討伐に向かわせたのでした。
公孫淵はこれを迎え撃つべく、卑衍・楊祚らに歩騎数万人を率いさせ、
遼隧に駐屯させたのでした。
そして司馬懿の軍勢が到着すると、卑衍が迎撃に出るわけですが、
司馬懿は胡遵に命じて、これを見事に打ち破っています。
その後司馬懿が襄平へと軍を向けると、
手薄となっている襄平が陥落するのを恐れた卑衍らは撤退したのでした。
次第に追い詰められていく事になる公孫淵ですが、
ここで再度卑衍に迎撃を命じますが、再び敗れたばかりか討死してしまいます。
公孫淵は籠城するものの、司馬懿が土山を築いて櫓を建設すると、
夜中を狙って連発式の弩を射て苦しめたといいます。
そんな中で三十日以上の長雨に苦しみ、襄平城の食料が底をついたことで、
人々は互いに食らいあう程に悲惨な状態に陥ったといいます。
ここにいたって将軍であった楊祚も降伏しています。
最終的に逃亡を試みた公孫淵でしたが、息子であった公孫脩ともども討ち取られていますね。
その後は襄平城も陥落しています。
またそれだけにとどまらず、成年男子であった七千人も処刑されており、
その首があまりにも高く積まれたことで、「京観」と呼ばれた逸話もあったりしますね。
この時に公孫晃(公孫淵の実兄)の一族も連座の罪により処刑されています。
ちなみに公孫晃は弟であった公孫淵の叛意を察して、
曹叡に対して討伐するように進言したこともあった人物であったのは余談です。
そんな経緯があったにも関わらず、
連座にさせられてしまったのは同情の余地がありますね。
これは三国志に注釈を加えた裴松之も言っている事ではありますが・・・
ちなみに公孫淵によって遼東太守の座を奪われていた公孫恭ですが、
司馬懿によって幽閉されている所を発見されて、唯一処刑を免れたとされる人物になります。
そして公孫淵の影響化にあった遼東郡・楽浪郡・帯方郡・玄菟郡の四郡が、
魏の支配下に置かれる事になったのでした。