朱桓(しゅかん)

個人的に好きな武将に朱桓がいるんですが、

この朱桓、知名度的にはやっぱり陸遜とかそういう人物と比べると落ちちゃうんですが、

今回はそんな朱桓について見ていきたいと思います。

 

 

朱桓は、記憶力がとても良くて、

一度会った人間の名前や顔を忘れなかったそうです。

 

朱桓は孫権に仕えるのですが、

任された呉郡と会稽郡をしっかり治め、民衆からも支持が高かったようです。

 

また呉の山越討伐などでも幾度となく活躍しています。

濡須口の戦い(曹仁)

朱桓の力が大きく発揮されたのは、

魏の曹仁軍と対峙した濡須口の戦いになります。

 

この濡須口の戦いは、

222年に呉蜀で起きた夷陵の戦いの翌年の出来事ですが、

呉蜀の激突によって油断しているであろうと考えた曹丕が、呉へ攻め込んできた時の話です。

 

この時朱桓は1万人を率いて濡須城を守っていたのに対して、

曹仁軍は、この数倍の兵力を率いていました。

 

兵力的には圧倒的に劣っていた朱桓軍ですが、

曹仁と言えば魏の名将であり、曹仁の策にはまった朱桓軍は更に痛手を負います。

 

しかしここで朱桓は頭を切り換え、

「私と曹丕を比較しても私の方が優れているのに、

ましてや曹仁など話にならない。

 

それだけでもこちらに分があるのに、こちらは地の利も得ている。

更に曹仁軍は遠征してきていて披露している。」

と兵士を鼓舞します。

 

そしてその後、軍を立て直した朱桓によって曹仁軍は誘い込まれ、

結果的に勝利を掴んでいます。

石亭の戦い(曹休)

 

時代は進み、228年の出来事ですが、

周魴の仕掛けた嘘の降伏に騙された曹休軍が呉へ侵攻してきた時の話です。

 

曹休は呉を攻略するチャンスと見て、

10万の兵を率いていました。

 

しかし石亭に到着した時に、

曹休は周魴の降伏が嘘であることに気づきます。

 

 

既に周魴は逃げ出した後でしたが、

曹休は多くの兵を引き連れてきていたこともあり、石亭で戦う事を決意します。

 

この時曹休軍を迎え撃ったのは陸遜ですが、

陸遜の右腕として3万の兵を任されていた朱桓は、

陸遜らと共に、曹休軍を見事に打ち破って勝利を収めています。

戦わずして撤退に成功

前回の石亭の戦いでは周魴の偽降伏によっておびき出された曹休は

呉軍に打ち破られてしまいましたが、

 

今度は魏の呂習が偽降伏によって、呉を誘い出そうとします。

 

そして朱桓らは、これをきっかけに魏へ侵攻を開始しますが、

これが魏の計略である事に気づいた朱桓は、急ぎ撤退を開始します。

 

これに対して追撃を開始しますが、

撤退している呉軍の中に朱桓の旗印があるのを見ると、

それ以上追撃する事をしなかったようです。

 

これによって朱桓らは無傷で呉へ引き返す事に成功しています。

人の命令は聞かぬ・・・

 

ある時、朱桓は全琮(ぜんそう)と共に軍を指揮した時、

作戦上のことでもめた事がありました。

 

朱桓は自分自身の作戦に自信をもっており、

全琮もこれ以上朱桓と揉めるのはまずいと考え、

これは「胡綜(こそう)が考えた作戦だ」と責任転嫁します。

 

それを信じた朱桓は、胡綜のとりまきらを切り殺しています。

ちなみに、とうの本人である胡綜は朱桓が怒って乗り込んでくると聞かされ、

既に逃げ去った後でした。

 

胡綜からしてみれば、

何の罪もないただのとばっちりだったわけです。

 

 

その後、朱桓は「もうやってらんないわ」って事で、

病気と称して帰国してしまいます。

 

これを聞いた孫権は、怒るどころか、

これまでの朱桓の功績に免じて、罪を負わせることはありませんでした。

 

それどころか朱桓の元に医者を送って、

治療に専念するように心配したほどだといいます。

本当に朱桓が病気だったのかは不明ですけど・・・

 

 

 

その後病気が治り、濡須城に戻ろうとした朱桓を、

孫権は出迎えたそうです。

 

また朱桓はこの際、遠くに旅立つ前に、

「孫権様の髭を一度撫でたいんですけど」と言い、

それを孫権は聞き入れます。

 

そして孫権の髭を撫でた朱桓は、

「本物の虎の髭を撫でることができました」といって、

孫権を喜ばせたそうです。

朱桓の最後

孫権に生涯をささげた朱桓ですが、238年この世を去ります。

 

朱桓は生存の際、褒美として受け取ったもののほとんどを

功績のある自分の部下に分け与えていた為、私財がほとんど残っていませんでした。

実際、朱桓の葬儀すらあげれないという状況だったのです。

 

これを聞いた孫権は、

朱桓の葬儀が行えるように援助しています。

 

また生前朱桓に大事にされた多くの部下達は、

朱桓の死を大変悲しんだそうです。