鄧艾が陰平道(裏道)から命がけで奇襲を行ったことが功を奏し、

綿竹関の戦いでは諸葛瞻・諸葛尚親子、そして黄崇・張遵などが討死します。

 

綿竹関を落とした鄧艾は成都へなだれ込むんですけど、

劉禅は譙周の言葉もあって降伏を決意したのでした。

劉禅に降伏を勧めた陳寿と羅憲の師、譙周(しょうしゅう)

 

 

姜維の援軍がかけつけるまで城を守り通すか、

もしくは南方へ逃げて再起を図るかなどの選択肢もあったようですが、

 

最終的に劉禅が下した判断は、戦わずしての降伏でした。

 

 

それに伴い、姜維も鍾会へと降るわけですが、

劉禅が降伏するまで魏の猛攻から城を守り通していた三人の人物がいました。

  • 漢城を守る蒋斌(しょうひん)
  • 楽城を守る王含(おうがん)
  • 黄金城を守る柳隠(りゅういん)

 

ここではあまり知られていない戦いであり、

最後の最後まで魏の猛攻を防ぎ切った三人を見ていきたいと思います。

漢城の蔣斌&楽城の王含

蒋斌は諸葛亮死後の蜀を支えた蒋琬の息子であり、

 

鍾会・鄧艾らが漢中へ侵攻してきた際には、

五千人の兵で漢城を守っていました。

 

 

鍾会は漢城を落とすべく攻撃をしかけますが、びくともしません!

 

ちなみにですが鍾会が率いていた兵力は十万人(十二万人とも)だったと言われており、

それを蒋斌は防いだということになりますね。

 

 

ここで軽く補足しておくと、鍾会十万人とは別に、

鄧艾・諸葛緒がそれぞれに三万人を率いて蜀攻略に乗り出していた感じなわけです。

 

鄧艾と諸葛緒が姜維を挟み撃ちにする感じで戦い、

その間に鍾会が漢中を攻略していくといった作戦だと思って頂ければ分かりやすいかなと思います。

 

 

ちなみに漢中を攻略する為に立ちはだかる城は、

漢城・楽城・関城であり、これらを突破することが漢中攻略には必要であり、

 

蒋斌が守る漢城・王含が守る楽城へと攻撃をしかけています。

 

王含も蒋斌と同様に五千人の兵士で守っていましたが、

ここも突破する事ができずにいました。

 

 

正確に言うと順番が前後するのですが、

 

まず鍾会は楽城の王含を攻めるも城を落とすことができず、

王含が守る楽城へは李輔りほに一万人を預けて攻略を引き続き任せています。

 

その後同じように蒋斌が守る漢城へと攻撃を開始したということですね。

 

 

そして上でも記載したように蒋斌が守る漢城も簡単に落ちないと知ると、

 

鍾会は引き続き荀愷じゅんがいに一万人の兵を預けて漢城攻略を任せて、

鍾会は漢中の入口である陽平関・関城へと更に進軍していく事にしたのでした。

 

鍾会が楽城・漢城より陽平関・関城攻略を急いだ理由は?

鍾会が楽城・漢城が簡単に落ちないと知ると、

李輔・荀愷に任せて陽平関・関城攻略に急いだのには理由がありました。

 

それは陽平関・関城が漢中の入口にあたり、漢中攻略する為に欠かせないものだったからです。

 

「陽平関」というのは漢中を守る関所で聞いたことある人は多いと思いますが、

関城と表裏一体の防衛拠点でもありました。

 

陽平関が落とされると、漢中内部への侵攻を意味し、

関城がおとされることで剣閣、そして成都への道が開けるからです。

 

 

しかしここで関城の守備を任されていた蔣舒しょうじょが、

鍾会の先鋒隊として攻めてきた胡烈軍に裏切ってしまったことで陽平関が陥落してしまいます。

 

残された傅僉は一人で関城を守るものの、

胡烈・蒋舒に攻められて討死し、関城は陥落したのでした。

 

それに伴って鍾会は漢中制圧に成功すると共に、益州内部への道が開けたわけですね。

 

 

私は陽平関=陽安関ではないという前提で記載していますが、

実際日本人には陽安関=陽平関という説が根強いように思います。

 

ただ私の考えとしては陽平関と陽安関は別物であり、

陽安関=関城という前提でここでの内容は記載しています。

 

 

その頃姜維は鄧艾と対峙していましたが、漢中の様子が非常に気になった事もあり、

急いで鄧艾との戦いを切り上げて撤退してきています。

 

しかしその頃には関城までが陥落している現実を目の当たりにし、

姜維は剣閣の守備を選択して撤退していったわけです。

 

漢中が制圧されながらも、

蒋斌・王含は、魏に降ることなく戦い続けることとなります。

蜀を滅ぼした功績者であり、魏からの独立を夢見た鍾会

黄金城の柳隠

 

柳隠は誠実で真面目な性格の人物で、友情に厚い人物でもありました。

 

柳隠は姜維の北伐の際にも参加しており、

「柳隠の才能は軍の中でも飛びぬけている」と称されたほどの人物でもありました。

 

 

それらの功績から柳隠は「漢中黄金囲の督」に昇進し、

黄金城(黄金囲)を守ることを任されることになります。

 

そんな折りに鍾会・鄧艾が漢中攻略の為に侵攻を開始していました。

 

 

黄金城の西側に位置する楽城・漢城は魏の攻撃にさらされていましたが、

 

魏興城の劉欽りゅうきんが鍾会・鄧艾を援護する為に、

孤立無援となっていた黄金城への攻撃を開始したわけですね。

 

しかし柳隠も黄金城を固く守り、楽城・漢城同様に城を守り抜きます。

 

柳隠を破った後に漢中攻略に動いていた鍾会を援護しようとしていた劉欽ですが、

柳隠の活躍によって完全に阻まれてしまった感じでした。

最後まで城を守り抜いた蒋斌・王含・柳隠

 

剣閣を守る姜維・廖化・張翼らを攻めるべく鍾会が攻撃を仕掛けるも、

蜀の精鋭が守る剣閣を突破する事ができずに苦戦を強いられることとなったわけですね。

 

そこで鄧艾が陰平道から剣閣の西側を抜けて奇襲を行った事で、

劉禅が降伏したことで蜀は滅亡します。

 

 

劉禅が降伏したことを知った蒋斌・王含は、

魏へと降伏する事となったのです。

 

周りを魏軍に囲まれながらも最後の最後まで城を守り通した二人だったのでした。

 

ちなみに鍾会は降ってきた蒋斌・王含を手厚く迎えたそうです。

特に蒋斌に関しては「尊敬できるほどの友人」といった感じで接したといいます。

 

 

もう一人最後の最後まで抵抗していた柳隠に関してですが、

劉禅が降伏したことを知らされても降伏する事はなく、更に戦いを続けました。

 

そして劉禅から直接の使者が訪れた際に魏へ降ったのでした。

 

最後の最後まで味方を信じて、劉禅が降伏したことを敵の策略だと思い、

自分のやるべきことを全力でやりぬいたのです。

 

柳隠のこの時の戦いぶりを聞いた司馬昭は、

「柳隠こそ真の義士である!」と褒め称えました。

 

 

姜維・廖化・張翼と鍾会が対峙する剣閣の攻防戦、

そして鄧艾の陰平道からの侵攻による綿竹関の戦いにスポットが当たりやすいですが、

 

敵に囲まれながらも最後の最後まで諦めることなく、

孤独に戦い続けた三人の人物がいたことをもっと多くの人達に知ってほしいですね。

蜀滅亡後の蒋斌・王含・柳隠

鍾会のもとで手厚く迎えられた蒋斌・王含でしたが、

蒋斌は鍾会・姜維が成都で独立する動きを見せた際に巻き込まれた形で殺害されてしまっています。

 

一方の王含ですが、降伏後どうなったかは分かっていません。

 

蒋斌同様に巻き込まれる形で殺害された可能性も十分にあるかとは思いますが・・・

 

 

そして黄金城の柳隠も姜維・鍾会の乱に巻き込まれたのかというと、

全くそういうわけでなく、

 

蜀が滅亡した翌年に河東郡に移り住んでいます。

そして議郎に任じられ、265年には西河太守を任されています。

 

最後の最後まで忠義を尽くした柳隠を高く評価しての抜擢だったのでしょう。

 

 

柳隠は長らく西河太守を任されていましたが、

柳隠も高齢であったこともあり、

 

その三年後には高齢と病気を理由に辞任を申し出ています。

 

 

柳隠が職を辞した後は、故郷である益州へと戻り、

80歳で静かに息をひきとったといいます。

 

当時としては十分すぎるまで生き抜いた柳隠だったのでした。