諸葛瞻(しょかつせん)

 

諸葛瞻は諸葛亮(孔明)の子供として、227年にこの世に生を受けます。

孔明は234年に五丈原で陣没するので、その8年前に生まれた子ということになりますね。

 

孔明が最後の北伐になる第5次北伐に出向く前に、

「自分の子である瞻(せん)は8歳になったのだけど利巧すぎて、

逆に将来大物になれないんじゃないかと心配してる」

と呉に仕えていた兄の諸葛瑾に手紙を出していたという記録が残っています。

 

蜀を支えた丞相でも、

人間味あふれる親ばかぶりだなぁと思います。

 

特に晩年にできた初めての子であったから、

余計に自分の子がかわいく見えたのかもしれませんね。

 

 

ちなみに孔明は黄承彦の娘である黄夫人と結婚したことになっていますが、

実際黄夫人との間に生まれた子かどうかは記録として残っていません。

 

まぁ普通に考えたら二人の子ではあるんでしょうが、

黄夫人が高齢出産過ぎる気もします。

諸葛亮死後の諸葛瞻

諸葛亮が五丈原で亡くなると、

若いながら父親が持ってた武郷侯の爵位を引き継ぎます。

 

諸葛瞻は記憶力に富んでいたりで、

孔明の面影があると周りから自然に期待されてしまいます。

親が凄いと子供は大変だと言いますけど、諸葛瞻の場合はまさにそれかなと・・・

 

 

そして諸葛瞻が17歳になると劉禅の娘を妻に娶ります。

 

劉禅は孔明を父親同然に思っていたので、孔明の子である諸葛瞻に、

自分の娘を嫁がせれた事は心から嬉しかったんではないでしょうかね。

もちろん孔明同様に期待も込められていたでしょう。

 

そして諸葛瞻が何をしたとかではないですが、

期待値の高さからでしょうね、どんどん出世していきます。

諸葛瞻、国政を動かす立場になるも・・・

 

261年、諸葛瞻が35歳になった時、行都護衛将軍に任じられます。

 

またこの時、董厥(とうけつ)と共に平尚書事にも任命されており、

このあたりから蜀の国政を担う立場になっていきます。

 

しかしこの頃、董允もこの世を去っており、

劉禅お気に入りの黄皓(こうこう)が政治に介入しており、

蜀の政治は腐敗してしまっていました。

 

そして諸葛瞻には黄皓を排除する力はなく、

自然のなりゆきから黄皓とプライベートでも交流を持つようになります。

諸葛瞻、黄皓色に染まっていく

262年に入ったあたりあたりから、

黄皓と姜維の関係が非常に悪化していきます。

 

そして黄皓は自分が姜維に殺される前に、

なんとか姜維を排除しないといけないと考えるようになります。

 

 

この頃諸葛瞻は黄皓とも表向き上仲良くなってきており、

黄皓のこの私的な考えに同調し、協力して姜維を排除しようとします。

もちろん同じく国政を担っていた董厥と共に・・・

 

そして諸葛瞻は姜維を排除する為に、

閻宇(えんう)を姜維に代えて取り立てるように上奏したとかしなかったりとか、

実際諸葛瞻が上奏したのかどうかははっきりわかっていません。

 

ただ黄皓と閻宇が裏でつながって、仕組んでいたのは間違いないようです。

劉禅に取り入り、蜀の政治の腐敗を招いた佞臣(宦官)黄皓

 

でも孔明自身が軍事面で蜀の将来を任せた姜維を

孔明の息子である諸葛瞻が国を腐敗されている黄皓側として姜維を排除しようとか

ぶっちゃけ孔明が生きてたら泣いてるレベルですよ。

最後は諸葛亮の子として・・・

 

263年に入ると、蜀を討伐すべく、

鍾会・鄧艾率いる魏軍が蜀へ攻め込んできます。

 

蜀の政治は腐敗していることは魏でも当たり前に知るところで、

今の機会を逃す手はないといった形での魏の侵攻でした。

 

漢中が落とされますが、蜀の主力部隊である姜維・廖化・張翼らが

剣閣で魏の大軍を足止めします。

 

 

この時鄧艾は、このまま力推ししても剣閣を突破することは不可能だと考え、

別動隊を率いて険しい間道を迂回する作戦をとります。

 

一歩間違うと鄧艾が全滅してしまうという危険な作戦でしたが、

この作戦は見事に成功し、結果的に蜀滅亡につながってしまいます。

 

 

ただここで鄧艾の前に最後に立ちはだかったのが、

諸葛瞻と諸葛瞻の子である諸葛尚でした。

 

諸葛瞻は鄧艾軍を迎撃する為に涪県にいきますが、

この戦いでなんなく敗れてしまいます。

 

そこで成都の前線基地である綿竹関まで撤退して鄧艾軍を待ち構える事にしました。

最後の意地

 

鄧艾は諸葛瞻に降伏するように手紙を送りますが、

諸葛瞻は手紙を持ってきた使者を切り殺し、綿竹を守り抜く覚悟で戦いに挑みます。

 

戦いが始まると諸葛瞻が鄧艾を圧倒する場面もあったみたいですが、

しかし実践経験が薄い諸葛瞻にとっては荷が重すぎた戦いであり、

最終的に鄧艾に綿竹関が破られ、諸葛瞻・諸葛尚親子は討死してしまいます。

 

 

ちなみに諸葛尚はこれ以上はもう持ちこたえられないと判断した時、

「黄皓の専横さえなければこういう結果になることはなかった!」と叫んで、

鄧艾軍へ突撃して玉砕したそうです。

 

この時、諸葛瞻らと共に綿竹で戦って討死した武将に、

黄崇(黄権の子)・張遵(張苞の子)・李球(李恢の甥)らがいました。

綿竹関の陥落と共に潰えた漢王朝再興

綿竹関が鄧艾によって落とされた事で、

成都の劉禅は戦うことなく降伏してしまいます。

 

これによって劉備が「漢王朝再興」を夢見て建てた王朝である蜀は、

劉禅の降伏とともに夢幻と消えてしまいます。

 

 

ただ諸葛瞻は能力が高かった低かったとか以前に、最後の最後は蜀に殉じるといった姿勢だけは貫いた、

これだけで諸葛亮の子に恥じない最後を迎えれたんじゃないかなと思いますね。

 

「終わりよければ全てよし」という言葉がありますが、

そんな言葉が何故かしっくりくるところがあるのが諸葛瞻の最後かなと思ってます。

もし諸葛瞻が黄崇の意見を聞き入れていたら・・・

 

世の中、もしもなんてことはないですが、

それでももしも諸葛瞻が黄権の子である黄崇(こうすう)の意見を聞いていたならば、

鄧艾軍は全滅し、鍾会軍も剣閣を突破できず撤退を余儀なくされた可能性はありますね。

 

黄崇が提案していたのは、

涪県へ諸葛瞻らが向かった時に、要害となるべき場所を全て押さえておけば、

鄧艾がこちらを突破する事は困難で、勝利を得られる可能性が高いといったものでした。

黄権から黄崇へ受け継がれる想い

 

 

はい、普通にというかこの時の現状考えたら、

非常に良い作戦だなぁと個人的には何度も思っちゃったりするわけで・・・

 

険しい間道を命がけで通ってきた鄧艾は、

東ルートからの侵攻が少しでもうまくいかなかった時点で、

いつでも全滅する可能性があったからです。

 

でも諸葛瞻は何を思ったのか、

要害の地をおさえるどころか全く動きもしなかったんですよね。

そしてそのまま鄧艾軍と激突して敗れてしまって綿竹関まで撤退してますし。

 

 

黄崇の考えを採用したにしても

ここでもし鄧艾軍を壊滅させ、ここでの滅亡を免れていたならば、

「さすが孔明の子だ!」と誰もが認める所だったでしょうね。

 

例えそれから数か月後に再度魏が侵攻してきて、

蜀がその時滅んだとしてもです。

 

そんな見せ場の一つもなく、

諸葛瞻らを待ち受けていたのは綿竹関での討死だけだったのが多少惜しまれます。

陳寿の評価

三国志正史を書いた陳寿は、諸葛瞻のもとで働いていた時期がありました。

その時に諸葛瞻から恥辱を受けた等の記録があったりします。

 

そんな自分自身と関わり合いがあった諸葛瞻を

「諸葛瞻は期待だけが独り歩きし、実力以上の名声を得ていた」

と陳寿は評価しています。

 

ただ陳寿自身が諸葛瞻から恥辱を受けた過去があった為、

諸葛瞻の評価をわざと落としてこのような書き方をしたと言われていますが、

まぁいたって間違いではないと私は思いますけどね。