昌豨(しょうき)
昌豨は知る人ぞ知る戦上手な人物です。
「あまり聞かない名前だなぁ」と思った人も多いかもしれませんが、
戦上手であった曹操に何度も反逆しており、
そしてその都度襲い掛かってきた曹操軍の名将達に対して、
名勝負を繰り広げています。
最終的には処刑されてしまうんですが、
それから20年経った226年に諸葛亮の上奏文に名前が出された人物でもあります。
227年に出師の表を出して、
北伐を開始するのでその少し前の話になりますね。
諸葛亮が言うには、
曹操が5回攻めても倒せなかった男と言っています。
ただ残っている記録を見る限り、実際5回も戦っていない感じですし、
少し大げさに諸葛亮は言ったのかもしれませんね。
もし諸葛亮の言った事が間違いでなければ、
小競り合いなども含めて、5回戦ったのかもしれません。
単純に記録が残ってないだけの気もしますが・・・
今回はそんな曹操に抵抗し続けた昌豨の生涯について見ていこうと思います。
呂布・臧覇・孫観・呉敦・尹礼・昌豨VS曹操
徐州で陶謙から独立した臧覇のもとには、
孫観・呉敦・尹礼・昌豨といった荒くれもの達が仕えていました。
ただ昌豨が実際に臧覇に仕えていたかどうかは結構難しいところで、
行動を共にしたとあるだけで、実際は臧覇と同盟関係だったのかもしれない。
とりあえず行動を共にしていた事だけは間違いない事実です。
その後、臧覇・昌豨らは呂布と敵対しますが、
決着がつかず、臧覇・昌豨らの力を認めた呂布は同盟を結びました。
臧覇・昌豨らは呂布の臣下みたいな書き方もされたりますが、
お互い対等な同盟関係にあっただけです。
しかし呂布が曹操に敗れると、臧覇・昌豨らは観念して曹操に降伏しています。
もちろんこの時昌豨も曹操に降っています(198年12月)。
そして曹操は、青州・徐州を臧覇・昌豨・孫観・呉敦・尹礼に任せたそうです。
昌豨VS張遼・夏侯淵
199年に、劉備が曹操に反乱を起こした際、
昌豨は劉備らに誘われた形で曹操を普通に裏切ります。
劉備は袁紹ともつながっており、
このタイミングで多くの山賊らの反乱も起きています。
おそらく曹操包囲網を築いていて、
その中の一人として昌豨を誘ったんじゃないかと思いますね。
この当時、曹操が勢力を拡大していたとはいえ、
袁紹の方が格段に勢力としては大きく、
その上包囲網を築いていたとすれば、
昌豨もさすがに曹操を倒せると考えたんじゃないかと思うわけです。
しかし曹操がこれに迅速に対応すると、
劉備があっさりと曹操に蹴散らされ、昌豨も戦いに敗れて追い込まれていきました。
そして曹操が袁紹を官渡で破ると、曹操は本格的に昌豨討伐に乗り出します。
この時、張遼・夏侯淵に昌豨の討伐を任せていますが、
昌豨軍の抵抗は激しく、数か月経っても決着がつかなかったのです。
しかし戦いが長引くにつれ、曹操軍の食糧はほぼ底をつきかけており、
一方の昌豨の方も限界が近づいていました。
昌豨は張遼との顔馴染みであったのもあり、限界まで追い込まれていたのでしょうね。
昌豨が張遼を砦から見てくることが多くなったと記録にあります。
だからといって張遼・夏侯淵らも食糧問題から限界が近かっただけに、
ここで説き伏せるタイミングだと思ったのでしょう。
張遼は昌豨と話し合い、結果として昌豨を降伏させています。
昌豨VS于禁・臧覇・夏侯淵
それからしばらくの間、昌豨は大人しくしていましたが、
206年に何が不満だったのか分かりませんが、再度曹操に反逆。
曹操は于禁・臧覇に討伐を命じましたが、
昌豨を討伐するどころか逆に押される始末でした。
そこで曹操は夏侯淵を援軍として送ったことで、なんとか昌豨を打ち破ります。
そしてこれ以上戦っても勝ち目がないと判断した昌豨は、
于禁の元に降伏を願い出ました。
昌豨は、張遼・臧覇だけでなく于禁とも知り合いで、
于禁を頼ったわけです。
しかし于禁は法に厳しい人間であり、
「包囲された後に降伏した者は許されない」として、
知り合いであった昌豨を許さず、泣きながら昌豨を処刑してしまったそうです。
昌豨に対する評価
昌豨が于禁に処刑された事を知った曹操は、
法をきちんと守った于禁を高く評価すると同時に、
「于禁の元に行かずに、私に直接降伏していれば・・・」
と昌豨の死を惜しんだと言われています。
これだけ何度も反逆した昌豨を許そうとしたことからも、
昌豨は並々ならぬ人物だったのでしょう。
徐州で最初に行動を共にした臧覇だけでなく、
張遼・于禁といった魏の五大将軍とも知り合いというのも凄い事ですし、
曹操の主力メンバーの攻撃をこれだけ耐えたというのも、
昌豨が只者ではなかった一つの証拠かなと思います。
歴史にもしなんてのはありませんが、
それでももし昌豨が魏・呉・蜀のどこかに仕えていたならば、
名将の一人として名を残していたのかもしれませんね。