おそらく三国時代、一番有名な大将軍と言えば

高い確率でこの人の名前があがるんじゃないでしょうかね!?

 

実力ははっきり言ってないですし、

後漢・魏・呉・蜀それぞれに実力が伴って就任した有名な人物は沢山いますが、

 

そんなことは差し置いて、

絵にかいたような成り上がりを見せた何進の「大将軍」としての知名度は抜群です。

 

なぜなら黄巾の乱と並行して、

三国時代の扉を開けたきっかけを作った序盤の人物だからですね。

何進(かしん)の転機

何進はもともと牛や馬などを殺して、

その肉を販売するという屠殺業を生業にしていました。

 

この時に何進は、一族でもあった何苗かびょうと共にやっていたようです。

 

ただ何一族としての繋がりはあるものの、

何進と何苗は血のつながっていたわけではないんですけどね。

 

 

そしてまさに何進と何苗の双方と血のつながりがあったのが、

後に玉の輿にのって後漢皇帝(霊帝)の正妻となる何氏(何皇后)でした。

 

何氏が霊帝に嫁ぎ、後次ぎ候補になる劉弁(後の少帝)を産むと、

何一族は自然と採り立てられるようになっていきます。

 

その中で特に引きたてられたのが何進と何苗といっていいでしょう。

 

何進と何苗は官僚に採り立てられ、その後瞬く間に出世していくこととなります。

 

 

そして何進にとってその時がやってきます。

 

184年2月に張角・張宝・張梁による黄巾の乱が発生したわけなんですが、

この時に何進の代名詞とも言える「大将軍」に大抜擢されることとなります。

 

ちなみに何苗はこれより3年後に車騎将軍に任じられています。

黄巾の乱の首謀者であり、三国時代の扉を開けた張角

大将軍とは?

 

「大将軍とはなんぞや?」って人の為に軽く説明しておくと、

 

全ての将軍職の頂点に君臨するのが大将軍であり、

立場的には三公九卿よりも上位に位置する将軍職になります。

 

 

ちなみに三公九卿の「三公」とは、司空・司徒・大尉の最上位官職であり、

その下に位置するのが「九卿」であり、三公を補佐したりする役割を持ってたりします。

 

そして驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍(大将軍の次将軍)が、

官職でいう司空・司徒・大尉の三公にあたります。

【三公】

  • 司空(土木関係)
  • 司徒(内政関係)
  • 大尉(軍事関係)

 

【九卿】

  • 太常(たいじょう)/祭礼担当
  • 光禄薫(こうろくくん)/朝廷の警護&宴席担当
  • 衛尉(えいい)/皇宮警護担当
  • 太僕(たいぼく)/皇帝の馬車の管理
  • 廷尉(ていい)/司法担当
  • 大鴻臚(だいこうろ)/外交担当
  • 少府(しょうふ)/皇室の財政担当
  • 大司農(だいしのう)/国家財務&農政担当
  • 宗正(そうせい)/(皇室の事務担当)

後漢の官僚制度(三公九卿)

 

 

余談を少しいれておくと、後漢の時代に三公に一番就任したのは、

袁紹・袁術の袁一族になります。

 

まぁ袁一族が「名門中の名門」と呼ばれていたのは有名な話ですよね。

魏・呉・蜀ではどういった人物が大将軍を歴任したの?

後漢末期から三国時代にかけていうと、

黄巾の乱の時に大将軍に任じられた何進に対してのイメージが強くありますが、

 

実際には三国に分かれて覇を競った魏・呉・蜀時代にも、

大将軍に任じられた人達はいました。

 

 

ただ私個人からすると大将軍としてのイメージはそれほど強くないんですよね。

勿論実力もあり、大将軍に相応しいような人物が目につきますけどね。

 

多分大将軍という位よりも、

その一人一人の生き様の方に目が向いてしまうからかもしれません。

 

 

そして何進の大将軍としてのイメージが無駄に強いのは、

はっきり言って何進から大将軍を取ったら何も残らないからでしょう。

 

三国時代という乱世を加速させた咬ませ犬ですし・・・

 

 

 

後漢末期の時代には、献帝より曹操や袁紹が大将軍に任じられています。

 

袁紹が大将軍になったのは、曹操が大将軍に任じられた際に駄々こねた形で、

曹操から譲ってもらっただけなんですけどね。

 

そんな大将軍という将軍職ですが、

魏を曹丕が建国すると夏侯惇を大将軍に任じていますし、

 

それからも曹一族である曹仁・曹真などが就任しています。

 

 

後忘れてはいけないのは司馬一族ですね。

司馬懿を筆頭に息子の司馬師・司馬昭などが歴任しています。

 

 

呉では陸遜・呂岱が任じられたり、

蜀では蒋琬・費禕・姜維などが任じられていたわけです。

 

 

まぁ、能力を評価された人物が就任しているのが明らかに分かりますし、

それぞれに大将軍といったイメージよりもそれ以外の活躍の方がイメージつくので、

 

それほど「大将軍≒人物」みたいなイメージはないんですよね。

 

 

逆に「大将軍≒何進」という構図を成り立たせてしまったことが、

何進のイメージを強くしてしまったのでしょう。

三国時代の将軍職(一品官から五品官)&歴任者について

霊帝の死&後継者争い

189年に霊帝が崩御すると、後継者争いが激化します。

 

この時に何皇后・何進は勿論のように劉弁を後押しするのですが、

霊帝の母でもあり、劉協の育ての親でもある董太后や宦官は劉協を後押したわけです。

 

 

宦官の中でも霊帝からの信頼も厚かった蹇碩けんせきに対して、

「跡継ぎは劉協!」と言っていた事もあり、

 

霊帝亡き後、蹇碩をはじめ多くの宦官が劉協側についてしまったという感じです。

 

 

ここで蹇碩は劉協に跡を継がせるために、

 

董太后の甥である董重とうちょうと手を組んで、

劉協を即位させる為の大きな障害となっていた何進殺害を企てますが、

 

仲間の裏切りもあって完全に失敗してしまいます。

 

 

そして劉弁を跡継ぎにしたいと思っていた何皇后・何進らは、

半ば強制的に劉弁を霊帝の後継として「少帝」として即位させたわけです。

 

さすがに情勢が悪いと判断した宦官らの多くは、

蹇碩を見捨てて何皇后・何進側に寝返ってしまいました。

 

 

蹇碩は他の宦官らから見捨てられた形で、

何進殺害を企てた意味で何進の命により殺害されてしまいます。

 

これにより少帝の外戚であった何進の力は益々増大していったのでした。

何進の最後

蹇碩ら宦官によって殺害計画をたてられたことに対して、

何進はこれを機に宦官を一掃しようと画策します。

 

「やられたら倍返しだ!」みたいな感じでしょうかね。

 

 

しかし何進にとってここで思わぬ事態を招いていしまいます。

 

 

少帝が即位したことで安心したのか、

 

宦官によって採り立てられたことに少なからず恩を抱いていた何皇后と何苗は、

何進の宦官一掃計画に反対してしまったのです。

 

宦官は何皇后・何苗が味方してくれたことで、

後は大将軍であった何進が納得してくれればうまくこの危機を乗り越せると考えて、

 

十常侍の筆頭でもあった張譲が何進の説得を試みたようです。

 

 

しかし何進と宦官の間での歩み寄りは見られず、

何進は大将軍という地位を利用して各地から群雄を呼び寄せるに到りました。

 

ここにいたって宦官は身の危険を感じ、

「何進を殺害するしかない!!」と結束を固め、

 

何進をうまい具合におびき寄せて、何進を殺害してしまいます。

 

 

何皇后のことがきっかけとなって大将軍まで上り詰めた何進でしたが、

宦官に返り討ちに合う形で生涯に幕を下ろしたわけです。

何一族(何進・何皇后・劉弁(少帝)など)の末路

何進が殺害された事で、袁紹や袁術をはじめ多くの者達が怒り、

宮廷に乗り込んで宦官を殺害しまくります。

 

この混乱の中で何苗も宦官に味方した一人として殺害されてしまいます。

 

 

十常侍であった張譲や段珪は霊帝と劉協(後の献帝)を連れて洛陽を脱出しようとしますが、

これを取り戻そうと追ってきた盧植・董卓らによって奪い返されています。

 

ちなみに董卓は何進が生前に呼び寄せていた群雄の一人です。

 

 

この時に張譲や段珪はこれ以上逃げれないと判断し、

「これまでだな・・・」と川に飛び込んで自殺しています。

 

この件があってからというもの董卓が朝廷内を掌握する形になり、

少帝を廃して献帝(劉協)を擁立し、少帝・何皇后を殺害してしまうのでした。

動乱を駆け抜けた後漢最後の皇帝、献帝(劉協)

 

 

ちなみに何苗の遺体は殺害された後に埋葬されていたのですが、

董卓によって墓を暴かれ、遺体をばらばらに切り刻んで捨てられたといいます。

 

何氏が霊帝の妻となったことで成り上がった何一族でしたが、

成り上がった者達の末路は悲惨なものでした。

 

 

その後漢王朝は乱れに乱れ、乱世の時代に突入していくのでした。

 

これより後に、袁紹・曹操・公孫瓚・袁術・孫堅・劉表・劉焉・劉備など、

各地で力を持った群雄が多く頭角を現す群雄割拠の時代に入っていくわけですね。