諸葛亮が魏打倒を目指した北伐。

 

北伐は第一次北伐にはじまり、

諸葛亮が陣没する第五次北伐まで続くわけですが、

 

この合計5回にわたる北伐で大失敗を犯した人物が誰かと言われれば、

第一次北伐で「登山家」と失笑される馬謖が真っ先に頭に浮かぶ人が多いのではないでしょうか?

馬謖(ばしょく/幼常)

馬謖は荊州で馬家の五男としてこの世に生を受けます。

 

馬謖の兄弟は全て才能に優れていて優秀だった為に、

「馬氏の五常」と呼ばれるようになり、

 

その中でも馬謖の一つ上の兄である馬良が最も優秀で、

白い眉をしていたことから、「馬氏の五常、白眉最も良し」という言葉が生まれたほどです。

馬良 -白眉と評された馬謖の兄-

 

 

ちなみにですが、馬良・馬謖以外の他の三人の名前は今に伝わっていません。

 

実際に馬良が馬家の四男で、馬謖が五男であるという記録もあるわけではありませんが、

馬良が四男で、馬謖が五男であることは「あざな」からわかることなんです。

 

 

中国には「字」をつける上で法則的なつけ方がいくつもあるんです。

その中の一つの法則に従うと見えてくる形ですね。

 

ちなみに分かりやすい所で言うと、

劉備なら「玄徳」、曹操なら「孟徳」と言った呼び名が「字」になります。

 

 

馬良の字は「季常」、馬謖の字は「幼常」なんですが、

 

当時、長男・次男・三男・四男といった生まれた順に

「伯(or孟)・仲・叔・季」の名をいれていくというパターンというのがあります。

 

この点で見ると馬良が四男だと推測できます。

 

 

だけど馬謖の「幼」は法則に入ってないじゃないかと思われる方もいるかもしれませんが、

この法則の場合に五男が生まれた場合「幼」を使う事が多かったのです。

 

だから馬謖は五男であると推測できたわけですね。

 

 

まぁせっかくなので他にも軽く礼をあげると、

三国時代の孫堅の息子は全員有名なので一番わかりやすいかもしれません。

  • 長男:孫策(伯符)
  • 次男:孫権(仲謀)
  • 三男:孫翊(叔弼)
  • 四男:孫匡(季佐)

馬氏の五兄弟(馬良・馬謖等)の姓名は? 字(あざな)は?

 

 

そんな馬家に生まれた馬謖でしたが、

劉備が荊州へと流れてきた頃に兄の馬良と共に劉備に仕えることとなります。

 

 

その後荊州へと侵攻を開始した曹操との戦いに入っていく劉備ですが、

曹操が荊州へ侵攻を開始し、赤壁の戦いあたりでは馬謖が登場することはありません。

 

記録として残っていませんし、

まぁ劉備らは曹操に敗れて命からがら南方へと落ち延びているわけですから、

 

馬謖もなんとか逃げながら劉備に付き従ったのでしょうね。

 

 

その後、劉備・孫権が赤壁の戦いで曹操を破って、

劉備が荊州南部を手中に治めたりとしていくわけですが、

 

次に馬謖が登場するのは劉備の入蜀の際です。

 

馬謖は劉備に非常に気に入られていたこともあり、劉備の入蜀に同行しています。

 

 

劉備が益州を手に入れると、

馬謖は要衝である綿竹県の長官に任命し、

 

その後は益州の首都であった成都の長官に任命されてるので大変な出世です。

 

 

劉備が馬謖を相当気に入っていたのでしょうね。

 

 

ここに少しだけ補足しておくと、

正史を見る限りはっきりしてはいないのですが、

 

実際は劉璋と対決していた際に、

綿竹県を劉備は本陣にしていたこともあり、

 

もしかするとこの時に綿竹県の長官に任命されていた可能性は十分あると思いますね。

 

そして劉備が劉璋を降して益州を手に入れたタイミングで、

馬謖を成都の長官に任命したというのが個人的にはしっくりきます。

 

その後は越巂郡の太守に任じられているといった流れですね。

 

 

ただ劉備は馬謖を大変気に入りながらも、

白帝城で亡くなる前に次のような言葉を諸葛亮に残しています。

 

「馬謖は大きなことを口にする男だから、

重要な役目を任せたりしないほうがいい」と・・・

諸葛亮に期待された馬謖

諸葛亮は馬謖について劉備から警告をされたにもかかわらず、

才能豊かであった馬謖に期待を寄せたのです。

 

もともと馬謖は劉備に気に入られていたのに対して、

諸葛亮は馬謖より馬良に大変な信頼を置いていました。

 

馬良自身も諸葛亮を兄のように慕っていたほどだったと言います。

 

 

そんな馬良が夷陵の戦いで戦死したことも相まって、

馬良の弟であった馬謖に大変な期待を寄せたのだと思いますね。

 

それが結果的に劉備の言葉をスルーする流れになってしまったのかなと・・・

 

 

そんな中で益州南部で大規模な反乱が勃発します。

 

これは雍闓が中心となって起こした反乱ですが、

三国志演義では孟獲が中心となって反乱を起こした描写になっていますね。

 

なので正史的には雍闓の話に乗って、

高定・朱褒・孟獲らが連合して反乱を起こしたような形だったわけです。

 

 

この時に馬謖が諸葛亮に言った

「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」

という言葉は有名ですね。

 

「力で征服しても彼らは何度も反乱を起こすので意味は薄い・・・

それよりも心から降伏させることが大事である!」といった意味合いなわけです。

 

結果的に馬謖の言葉に従った諸葛亮は、

南方平定を短期間で成し遂げることに成功します。

 

 

この件があって諸葛亮の馬謖に対する評価が、

これまで以上に上がっていったのは言うまでもないでしょう。

 

それと同時に劉備の心配が杞憂だったと思ったのではないでしょうかね!?

孔明と孟獲(南蛮討伐/七縦七擒)

街亭の戦い

諸葛亮が劉備との念願であった魏討伐に乗り出します。

 

諸葛亮の「出師の表」を上奏したことで有名な第一次北伐ですね。

 

この「出師の表」には魏を討伐するまでは、

成都へ戻ってこないという諸葛亮の強い意志が込められていました。

 

 

諸葛亮は事前に情報収集をきちんとし、

まず涼州地域を制圧する為に事前に抱き込み対策をやっていました。

 

そもそも涼州には異民族も多くいたこともあり、

漢王朝末期から魏の時代になっても反乱が絶えなかった地域でもあったこともあり、

 

蜀には馬超こそ無くなっていたものの、

馬岱が生存していましたし、涼州との関わらいがあったから利用したのでしょう。

 

 

また元々蜀の将軍であった孟達の裏切りを確約させたりと、

諸葛亮はこの北伐前に多くの手を打っていました

 

 

孟達の内通は事前に見破られて司馬懿に討ち取られるものの、

 

諸葛亮の計画はおおまかスムーズに運び、

天水郡・南安郡・安定郡を帰順させることに成功したのでした。

 

これによって魏では相当な危機感が生まれたといいます。

 

 

ここまでは良かったのですが、

隴西郡の游楚ゆうそは最後まで抵抗することをやめませんでした。

 

しかし諸葛亮は焦って隴西郡を攻略することをせず、兵を退かせています。

 

諸葛亮にとっては他地域の制圧をして優位に展開していけば、

「今無理して隴西郡を落とさなくても自然と降伏するだろう」という諸葛亮の考えがあったのでしょう。

 

 

この時に隴西郡の攻略を後回しにしたことが、

まさに街亭の戦いの後に大きな不利益を生んでしまったわけです。

 

もしも隴西郡を手中に収めていれば、

馬謖が街亭の戦いで敗れたとしても天水・南安・安定の三郡放棄はする必要はなかったと思いますし・・・

諸葛亮の第一次北伐が水泡に帰した最大の原因を作った隴西太守、游楚(ゆうそ)

 

 

少し馬謖の話とそれていってるので話を戻しますが、

 

最終的にこの第一次北伐が失敗に終わったのが、

街亭の戦いで馬謖が張郃によって叩きのめされて敗北したことでした。

 

この時に馬謖は諸葛亮の命令に背いて街亭の山頂に陣を築いたことで、

魏軍によって川を占領され、水の確保ができなくなってしまったわけですね。

 

これにより馬謖軍の士気は大きく低下してしまいます。

 

 

最終的にこの危機を打開する為に馬謖は敵中突破を試みますが、

士気だけでなく、体力も低下していた馬謖の軍勢は散々に打ち破られてしまうのでした。

 

これにより諸葛亮の北伐は失敗に終わり、

手に入れた天水・南安・安定の三郡を放棄して漢中へと撤退したわけです。

なぜ馬謖は命令に背いたのか!?

ただここで軽く触れておきたいのが、馬謖は諸葛亮の命令に背いて

山の麓(道筋)を抑えずに山頂に陣を敷いたのか?」という点ですね。

 

ただ私が思うにおそらくこの問いに対して、

素直に「馬謖は背いた!」とは言えないと思っています。

 

実際諸葛亮も馬謖に対して「街亭へ向かえ!」とは言っていますが、

「街亭の麓(道筋)を抑えよ!」と命じたという記載が残っているわけではありません。

 

 

諸葛亮は馬謖を街亭に送ったのには明確に理由がありました。

それは魏の軍勢を街亭で抑えて時間を稼ぐという役割でしたから・・・

 

そういう役割なので、

自然と「街亭の麓(道筋)を抑えよ!」みたいになるのかもしれませんが、

それだと馬謖が一方的過ぎて少しかわいそうなので、

 

他に記録が残っている街亭の描写から当時の背景を探っていきたいと思っています。

 

ここで注目しておきたいのが、街亭には古城が存在していました。

これは正史にも記載があるので間違いなく古城があったのは間違いありません。

 

実際は古城というより古いものなので、

城郭だけが残っていただけかもしれません。

 

 

諸葛亮も勿論このことは知っていたでしょうし、

 

諸葛亮と馬謖が街亭で魏を食い止めるような考えた理由として、

そのままでは使えない古城を修復して、魏の軍勢を抑えようとしたのではないかということ・・・

 

しかし街亭について修復に取り掛かった馬謖に予期せぬことが起こり、

それあまりに到着が早かった張郃の出現だったのではないでしょうか!?

 

 

予定より早く張郃が出現したために、

城の修復も間に合わずに混乱を起こした馬謖の作戦が変わってしまった挙句に、

 

最終的に「山頂に陣を敷いてしまったのではないかなぁ」と推察したりするわけです。

 

 

この場合、馬謖は命令に背いたのではなく、

予期せぬ張郃の出現で予定していた修復後の古城で魏軍を迎え撃つという作戦が実行できず・・・

 

 

馬謖は街亭の重要性を理解していただけに、

 

自分の力のみでなんとかしようと試み、

最終的に山頂に陣を敷くという「愚」を犯したのではないでしょうかね?

 

 

おそらく張郃の出現によって半ば崩壊していた作戦で、

 

事前に諸葛亮と魏が早く出現したい際は、

無理せず一旦退却するようにとか話し合いをしていたのかもしれません。

 

 

しかし馬謖は諸葛亮の期待に応えたいばかりに退却するところを退却せずに踏ん張ってしまった・・・

 

そしてそれが裏目に出てしまい、張郃に大敗北を喫し、

結果的に諸葛亮の命令に背く形になってしまったような背景が本当はあったのかもしれませんね。

王平と馬謖の逸話

街亭の戦いでよく知られるのが、王平の存在ですね。

馬謖の先鋒に任じられ、馬謖が山頂に陣を取るのを諫めたけど聞き入れられなかった・・・

 

ちなみに三国志演義では馬謖の相手は張郃ではなく、司馬懿となっていますけどね。

街亭の戦いで、司馬懿が馬謖を破ったという話は本当?

 

 

この時の王平は牙門将・裨将軍であり、

馬謖の先鋒を任されていたとはいえ、軍勢を任せられた馬謖と立場が違います。

 

王平は読み書きもできなかったということもあり、

馬謖にとっては王平の話なんて軽くスルーするレベルのことだったのかもしれませんね。

 

 

ただ馬謖の軍勢が惨敗して逃げていった際に、

立場的に千人しか率いることができなかった王平が魏の張郃に対して善戦しています。

 

あまりに王平が少数で勇敢に戦うものだから、

張郃は「敵に計略があるのかも!?」と思わせ、深く追撃することができなかったほどだったっそうです。

 

この戦いで王平の株が大きく上がったのは言うまでもありません。

 

 

しかしその後、天水郡と雍州の境あたりにあった列柳城を守っていた高翔も奮闘したようですが、

郭淮によって打ち破られています。

 

諸葛亮が撤退したのは、街亭の戦いで馬謖が敗れてすぐではなく、

 

列柳城まで奪われたことでこれ以上は被害が大きくなることを恐れて、

諸葛亮は退却する結論に達したという流れで終わるわけです。

常に周りの期待に応え、最終的に「漢中の守護神」として漢中を守り抜いた王平

泣いて馬謖を斬る

街亭の戦いに敗れてしまったことで、

諸葛亮の北伐計画は色々と水泡に帰してしまいます。

 

 

この時に諸葛亮は「できれば馬謖を殺したくない」と思ったものの、

 

命令に背いて街亭の大敗を招いた馬謖を許すことはできず、

泣いて斬ったことから、「泣いて馬謖を斬る」という故事が生まれたのは有名な話ですね。

 

諸葛亮は馬謖を斬った後も、

馬謖の一族に対してこれまでと変わらない待遇をしてあげたといいます。

泣いて馬謖を切る

 

 

ただ諸葛亮が馬謖を一度の失敗だけで斬らざるをえなかった理由として、

 

馬謖が街亭に敗れて後、

下の者達を置き去りにして逃げ去ったのが原因だとも言われていますね。

 

個人的には、これが馬謖の処刑の正直な理由じゃないかと思っています。

 

 

この時に諸葛亮に従って漢中に滞在していた向郎が、

逃亡してきた馬謖を見逃したという記載が残っていることから、

 

街亭の戦いに敗れて大きな被害を与えたことにプラスして、

馬謖が役目を放棄して逃げたことから、処刑するしか選択肢がなかったのでしょう。

 

馬謖の逃亡を見過ごした向郎も罰せられて免官させられていますから・・・

友人である馬謖を庇って罪に問われた学問の師、向朗

 

 

また馬謖伝には、

「謖、獄に下されて物故す。亮、これがために流涕す」と記載されています。

 

この文章からも分かるように、諸葛亮と対面してすぐに処刑を命じられたのではなく、

逃亡した馬謖が捕らえられて投獄され、その後処刑されたというのが自然な流れの気がします。

 

 

それにしても街亭を守れなかったという重大な失敗を犯しはしたものの、

何故諸葛亮の元へ帰参せずに、逃亡したのかは甚だ疑問が残る点ではあります。

 

ただそんな馬謖の本質を共に行動する中で劉備は見抜いていたからこそ、

ああいった言葉を諸葛亮に残したのかもしれませんね。