正史の魏書「方技伝」に記載されている人物として、
華佗(医術)や管輅(占い)が圧倒的に有名ではありますが、
占いの分野で「方技伝」に名が残る人物は
他にも杜夔・朱建平・周宣がいます。
ここでは三国志の世界の中でも、あまり知られていない朱建平の占いが、
どのようなものだったかを見ていきたいと思います。
かなりの凄腕の人物になりますね。
目次
人相占い、朱建平(しゅけんぺい)
朱建平は人相見(人相占い)として民衆の間で名が知られていたんですが、
馬の相(馬相占い)を見ることも得意だったとようです。
その話を聞いた曹操が、朱建平を招いて侍郎に任命したといいます。
ちなみに曹操と朱建平が、
同郷出身だったことも曹操が招いた一つの理由でもありました。
時期は曹操が魏公だった頃なので、
建安18年(213年)に魏公となり、
建安21年(216年)に魏王になっている間という事になりますね。
そんな朱建平の占いですが、逸話が残っている人物として、
曹丕・夏侯威・曹彪・応璩・荀攸などがあげられますね。
ただこういったふうに記録が残っている占いは、
ほとんどが的中したことが当たり前みたいな感じで記録が残っていますけど、
朱建平に関しては、占いが外れた逸話も残されています。
外れた例として記録が残っているのは、王粛・王昶・程喜の三名なんですが、
実際あり得ないだろうぐらいの占いが的中した話が多すぎるからこそ、
こういうった話は逆に信憑性があがるなと思えたりしますね。
曹丕の人相占い
朱建平は曹丕に対して
「曹丕様の寿命は八十歳ですが、
四十歳の時に些細な災難がふりかかってくるので、
この時だけは気を付ける必要があります。」
と占ったことがありました。
それからしばらく時が経ち、
曹丕が魏を建国し、朱建平が予言した四十歳の年齢になったのですが、
この年に曹丕は病にかかってしまい、
亡くなってしまいます。
自分が長くないと悟った曹丕は、
臨終の際に次のような言葉を残したと言われています。
「朱建平が私の寿命が八十歳だと言ったのは、
私に気遣って一日を昼・夜の二つに分けて、八十歳と答えのだと思う。
ただ朱建平が些細な災難と言っていた四十歳が真の寿命であったのだろう」と・・・
その言葉を残して、間もなく曹丕は亡くなったのでした。
夏侯威の人相占い
朱建平は夏侯威に対して、
「四十九歳の時に州牧を任せられます。
しかし同時に災難が降りかかってくることでしょう。
その災難をうまく切り抜けることができたならば、
七十まで生きることができ、
更に天子の後見人を任せられるまでになります。」と伝えます。
夏侯威は朱建平の言った通り、四十九歳の時に兗州刺史に任じられたのです。
しかし十二月に入ると大病を患ってしまったことで、
夏侯威は朱建平の占いを思い出して覚悟を決めたといいます。
遺言を残し、死ぬ為の支度が済んだ頃、
次第に病状は快方に向かい、五十歳になろうとしていた矢先の事でした。
そして後一日で五十歳になる大晦日の夜に、夏侯威は宴会を開き、
「明日にならば五十歳になり、無事に四十九歳を乗り切ることができる」
と喜んでいたわけです。
しかし宴会が終わって新年を迎える間際に病気が再発してしまい、
新年を迎えることなく、夏侯威は亡くなってしまったのでした。
曹彪の人相占い
朱建平は曹彪に対して、
「藩国(王位)をあずかりますが、
五十七歳で兵難にあいますのでお気をつけ下さい。」
と占いの結果を伝えます。
ちなみに藩国とは、王室を護衛する諸侯を指したり、
単純に領地を表すだけの意味だったりします。
曹彪は232年に楚王に封じられ、
239年の頃には三千戸を頂いていました。
しかし249年に司馬懿の操り人形と化していた曹芳に代わって、
王淩らが曹彪を担ぎ上げたのです。
曹彪自身も王淩らの計画にのったはいいものの、
251年に計画が漏れたことで、曹彪は処刑されてしまったのでした。
処刑されてしまった曹彪は、朱建平が予言していた通り、
57歳の時だったのです。
応璩の人相占い
朱建平は応璩に対して、
「六十二歳で侍中に任じられるけれども、同時に災難に見舞われます。
それと災難に見舞われる1年前に、
あなただけに見れる白い犬に出会いますよ。」
と占ってもらったのでした。
そして応璩は、61歳とほぼ同じ時期に、
侍中に任じられています。
そして応璩はその年に白い犬を見かけたことがあり、
不安に覚えた応璩は白い犬の事を周りに尋ねますが、
誰も白い犬を見た者はいませんでした。
そこで応璩は、朱建平の占いを思い出し、
自分の寿命が消えようとしていることを悟ったようです。
そこで応璩がとった行動は、
「どうせなら最後は楽しんで死のう!」と割り切り、
友人と遊んだり、旅行に行ったりと楽しんだといいます。
そして応璩は、63歳でこの世を去ったのでした。
荀攸の人相占い
策略家としても有名な荀攸ですが、
荀攸もまた朱建平に占ってもらったことがある一人でした。
荀攸の占い結果はというと、
「年上の鍾繇よりも早く亡くなり、
遺族の面倒を見てもらうことになりますよ。」
という内容だったのです。
荀攸はそのことを鍾繇に話すと、
「もしも本当にそうなったら、
わしが妾の再婚相手を探してやろう!」
と冗談交じりに話したといいます。
しかし朱建平の占い通り、鍾繇より先に荀攸が亡くなってしまい、
鍾繇は大層悲しみ、荀攸の残された家族の面倒を見てあげていますね。
荀攸・鍾繇の余談話
ここからは余談になりますが、二人は親密な交友関係を築いており、
荀攸の兵法のなんたるかを知っていたのは鍾繇だけだったといいます。
そして鍾繇は、荀攸の兵法(12の策略)がこの世から失われてしまう事を惜しみ、
記録に残そうとしますが、
鍾繇が死ぬまでに完成させることができず、
荀攸の兵法のほとんどが後世に伝わることはなかったといいます。
でも荀攸が死んでから16年以上長生きしてるのだから、
「どんだけのんびりやってたんだよ」と言いたくもなってしまいますけどね。
王粛の人相占い(予言不的中)
朱建平は王粛に対して、
「あなたの寿命は七十歳を超え、官位は三公にまで昇ります。」
と占ってもらったことがありました。
人相見として名が知られていた朱建平に、
そのように占ってもらった王粛は、大変喜んだと言います。
そんな中で王粛は62歳の時に重病にかかってしまいます。
しかし王粛は、
「私はまだ七十歳にもなっていないし、
三公にもなれていない!」
と自分が死ぬことなど微塵にも心配していなかったといいます。
しかし朱建平の占い通りにはならず、
王粛はそのまま亡くなってしまうのでした。
朱建平の占いの多くが的中していますが、
王粛は王昶・程喜と共に予想が外れた数少ない例になりますね。
曹丕の乗っていた馬の占い(おまけ)
朱建平が馬の相を見ることも得意としていたと最初に少しだけ触れていますが、
馬の相を占った逸話も現在に伝わっています。
これは曹丕が乗っていた馬の話ですが、
朱建平が曹丕の馬の相を見た時に、
「この馬の寿命は残念ながら今日限りです」と答えたのです。
曹丕は疑いを持ちつつも、それから間もなくの出来事でした。
その馬は曹丕の焚いていたお香の匂いを非常に嫌がり、
曹丕に対して嚙みついたのです。
それに激怒した曹丕は、
自分の馬を殺してしまったことで、
朱建平の占いは曹丕自らが原因となって、見事に的中することになったのでした。