幼き頃の鍾繇(しょうよう)

鍾繇は幼き頃に族父と出かけた際に、人相を見れる人物に出会い、

鍾繇に「出世の相と水難の相が出ている」と言われたことがあります。

 

その後、鍾繇は溺れて死にそうな目にあったことがきっかけで、

人相見の言っていた事が当たっていると判断した族父は、

 

鍾繇に対して様々な援助(金銭面等)してあげたそうです。

 

 

そのかいあってか鍾繇は博学になり、立派な若者に成長していきました。

曹操から関中の守りを任される

関中では馬騰・韓遂らの反乱が相次いでいた地域で、

董卓亡き後の長安も乱れていました。

 

そこで曹操は鍾繇の力を見込んで長安へ派遣。

鍾繇は期待に応え、馬騰・韓遂らを封じ込め、時には説得して曹操に従わせています。

 

 

そんな折、曹操と袁紹が官渡で激突します。

そして鍾繇は、2000頭の馬を集め、官渡の曹操の元へ送ります。

 

馬を受け取った曹操は、

「鍾繇は漢の高祖を支え蕭何しょうかに匹敵する」と言ったそうです。

蕭何とは?

前漢を建てた劉邦に挙兵時から仕えた人物であり、

劉邦を裏側から支えた名宰相です。

 

「彼が後方から食料や武器などの物資を的確に送ってくれたからこそ、

項羽に勝てた」と言って、劉邦は蕭何に感謝しています。

 

また劉邦が皇帝につきものの猜疑心に取りつかれた時も、

うまくかわして、天寿を全うしました。

 

 

おそらく後方から的確に馬2000頭を送り、

裏方から支えてくれた行動が蕭何のやった事と被っていた為、

 

蕭何に匹敵するという言葉を与えたのだと思いますね。

その後の鍾繇

曹操の時代にも活躍した鍾繇ですが、

曹操が死んで跡を継いだ曹丕の元では三公の一つである大尉まで昇り詰めています。

 

この時、三公に任じられたのは鍾繇以外に、

華歆(司徒)・王朗(司空)を三公に任命しており、

 

鍾繇・華歆・王朗が三公にこの度なれたのは、それぞれ一代限りの功績だと褒め称えました。

 

またそれと同時に言える事は、

子孫がその役職を引き継ぐことは無理だろうとも・・・

 

 

曹叡の代には、三公より立場としては上の太傅を任されています。

 

そんな鍾繇でしたが、230年に80歳で死去。

 

後に鍾繇の子であった鍾会が謀反を起こして惨殺されていますが、

 

鍾繇の功績と鍾会の兄であった鍾毓しょういくの功績を考慮して、

鍾毓の子など一部の者達は罪を許されて処刑される事はありませんでした。

真面目に生き抜いた鍾繇の子、鍾毓(しょういく) 〜これ以上ないタイミングで天寿を全うした男〜

蜀を滅ぼした功績者であり、魏からの独立を夢見た鍾会

鍾繇と荀彧・荀攸の逸話

鍾繇は、曹操を支えた大功臣であった荀彧を大変尊敬しており、

荀彧を孔子の弟子であった顔回がんかいに匹敵する人物だと大変高く評価していました。

 

そして荀彧の従子であり、親友でもあった荀攸に対しても荀彧同様に非常に高く評価し、

荀攸の兵法のなんたるかを知っていたのは鍾繇のみだったといいます。

 

 

鍾繇が荀彧を顔回と例えたのに対して、

 

曹操は荀彧を張良(劉邦の天下統一を支えた名参謀)に例え、

荀攸を顔回以上の人物だと大変高く評価しています。

 

 

荀攸が亡くなると、荀攸の兵法(12の策略)が後世に伝わらない事がもったいないと思った鍾繇は、

荀攸の兵法について記録を全て残そうと懸命に励みますが、

 

それが書き終わらないまま鍾繇がこの世を去ってしまった為に、

荀攸の兵法についての全てが、後世に残ることはありませんでした。

 

 

ちなみに鍾繇は、荀攸が58歳で病死してしまうと、

残された荀攸の家族を鍾繇が引き受けて面倒を見てあげたそうです。