正史の魏書「方技伝」に記載されている人物として、

華佗(医術)や管輅(占い)が圧倒的に有名ではありますが、

 

占いの分野で「方技伝」に名が残る人物は

他にも杜夔・朱建平・周宣がいます。

華佗に治療を受けた事がある人達とその治療法

天才占い師、管輅(公明)

 

 

華佗は医師、管輅・朱建平・周宣は占い師(予言師)として、

正史に名を残していますが、

 

ここで一番と言っていいほど外してはいけないのが、

同じ「方技伝」に名を残している杜夔という音楽家になります。

朱建平 -正史「方技伝」に名が残る人相見(占い)の達人-

周宣 -正史「方技伝」に名が残る夢占いの達人-

霊帝時代~劉表時代の杜夔(とき)

杜夔は正史「方技伝」に名を残している人物ですが、

 

杜夔は霊帝に仕えていた人物であり、

音に関する事にも詳しかったこともあり、雅楽郎として仕えていました。

 

しかし黄巾の乱などで各地が乱れ、

杜夔自身も病を患ったことで官を辞しています。

 

 

その後、杜夔が州徒郡司に任じられたことで荊州へと向かうことになり、

 

現地に赴いた杜夔に命じられた役割は、

劉表から帝(皇帝)の為の音楽(演奏)の準備するというものでした。

 

 

杜夔の準備が整うと、劉表は真っ先にそれを庭で見ようとしたのですが、

ここで杜夔は次のように言ったとされています。

 

「帝の為に準備した音楽であるのに、

それを軽はずみにも庭で見ようとされているのか!?」と・・・

 

 

これに対して劉表は自分の態度を深く反省したといいます。

軍謀祭酒に任じられた杜夔

劉表に仕えていた杜夔ですが、208年10月に事件が発生!!

 

荊州刺史であった劉表が死んでしまったのです。

そして劉琮が継いだわけですが、このタイミングで曹操が荊州へと侵攻を開始したわけです。

 

 

しかし劉琮は曹操に抗うことはなく曹操に降伏し、

自然と杜夔も曹操に仕えることに・・・

 

曹操は杜夔を「軍謀祭酒」に任じて迎え入れ、

「太楽(宮廷音楽の担当)」を司らせ、新しい楽曲の作成なども任せています。

 

 

「軍謀祭酒」と書きましたが、この「軍謀祭酒」という言葉が出てくるのは、

三国志の書物の中でも一部の「伝」にだけなんです。

 

それは杜夔の話が収められている「方技伝」と、

他には三国志「魏書」の21巻の王粲伝&建安七子について書かれているところです。

 

 

記載されている内容は路枠ろすいという人物が「軍謀祭酒」に任じられた際に、

建安七子である陳琳・阮瑀らと記室を担当したというものですね。

 

また王粲伝にもあるように、

王粲も「軍謀祭酒」に任じられたことがあるのは言うまでもありません。

 

 

とりあえず「軍謀祭酒」に任じられた人たちは、

文才面での才能があった人達が任じられていることからも、

 

曹操が杜夔の音楽面での才能を高く評価したという事のあらわれですね。

音楽の才能をいかんなく発揮した杜夔

優れた音楽の才能を持っていた杜夔ですが、

その才能は八種の楽器を演奏できるほどだったといいます。

 

ただ杜夔にも苦手な分野はあり、

歌ったり舞ったりといったことを苦手としていたようですね。

 

 

ただ杜夔は自分の才能を活かして、

音楽家の育成にも力を入れつつ、新しい楽器の制作にも取り組んだりしています。

 

それだけではなく、失われた先代の古楽(古い音楽・曲)を復元したりと、

当時の音楽分野に大きな影響を与えたのでした。

 

 

そのため先代や当時の楽器や楽曲が後世に伝えられたのは、

全て杜夔の功績だと言われているほどです。

 

それにより杜夔は太楽令・協律都尉に任命されたのでした。

鐘鋳造の名人「柴玉」との逸話

鐘の鋳造の名人として名が通っていた柴玉と言う人物がいましたが、

杜夔と柴玉に関する逸話が残されています。

 

 

杜夔が銅鐘を造るように命じたことがありましたが、

 

この銅鐘には音律の問題があると判断した杜夔は、

新しく作り直すように言ったのでした。

 

しかしこれに逆恨みしたのが柴玉だったわけで、

杜夔の音感に問題があるとして、逆に曹操に対して杜夔を訴えたいいます。

 

 

そこで曹操はどちらが正しいのかを試したところ、

杜夔が正しく、柴玉が嘘を言っていたことがわかったのです。

 

そして曹操は柴玉が嘘をついていたことに怒り、

柴玉だけでなく、柴玉の息子達を馬を育てるという下職につけて厳しく罰したのでした。

曹丕に疎まれた杜夔の最後

杜夔と柴玉の問題に決着がついたわけですが、

この結果に快く思わなかったのが以前より柴玉と仲良くしていた曹丕でした。

 

 

ある時曹丕は宴会を開いた際に、

杜夔に琴・しょうの演奏を命じたことがあったのですが、

 

宮廷音楽に関することを専門としていた杜夔は、

宴会の席などで演奏することを不快に思ったようです。

 

 

そんな中で曹操が没すると、杜夔の立場は完全に悪くなり、

過去の恨みから曹丕は杜夔を捕らえて獄に繋いでしまったのです。

 

まぁこういったことは他にもたくさんあるわけで、

曹丕の性格をよく表す一例ですね。

 

 

しかしそれとは裏腹に、曹丕も杜夔が優れた人物であったことは認めており、

杜夔から音楽に関する様々な事を習わせようとしたようですが、

 

杜夔は曹丕から習うように命じられた者達に、自分の音楽を教えることはなかったといいます。

 

 

最終的に曹丕が杜夔に対して行った行為は、

杜夔の官位を奪って追いやるというものでした。

 

そして杜夔は復職することはなく

不遇のままこの世を去ったのです。

 

 

ただ杜夔が後世に与えた影響は、計り知れないものだったことだけは間違いありません。