高い才能を持ちながらも、
案外知られていない名将を今回紹介してみようかなと・・・
それは袁紹に仕えた王修(王脩)ですが、
文官であるイメージが強すぎる人物でもあるんですが、
もともとは太史慈同様に、
武人として期待されていた人物でもあったのは案外知られていません。
一般的に王脩と言われることが多いんですけど、
個人的には王修の方がしっくりくるのは、多分KOEI三国志の影響を受けているんでしょうね(笑)
王修(おうしゅう/王脩)
青州北海国出身である王修は、清廉潔白で、
慈悲深いのもあって、多くの人々から慕われていた人物でした。
それを表す逸話も残っていたり・・・
その逸話は王修は村祭りの日に母親を亡くしたんですが、
翌年に隣村の祭りに招待された際に、
王修は母親を思い出して涙します。
王修の涙を見た村人達は村祭りに王修を招待しことを後悔し、
村祭りを中止したといった話があったりしますね。
太史慈と並び称された王修
王修の生まれ故郷である青州北海の統治を任されたのは、
孔子の子孫である孔融だったのですが、
困ったことに孔融が青州北海に赴任した時には、
高密県を中心に賊が暴れまわっているという状態だったのでした。
その現状に、
「まず賊討伐をせねば!」と思う孔融!!
そこで賊討伐させる人物として、
既に名を馳せていた邴原に命じたのでした。
しかし、邴原は賊が強大過ぎで自分では無理だと日和る始末・・・
そして自身の代わりに邴原が名を挙げた人物が
太史慈と王修の二人だったのです。
後に太史慈は武勇の優れた人物として名を馳せますが、
王修もまた武勇に優れた人物でもあったのは案外知られてないですね。
どちらかというと、
統率力がある人物という言い方がしっくりきますけど・・・
まあそこはさておいて、
この時はまだ青二才の匂いがプンプンしていた太史慈はベストタイミングで留守!!
太史慈は親不孝街道、真っ盛りの時期でしたし・・・
そういう背景もあり、自動的に役割を一任されたのが王修でした。
そして賊が暴れる高密県の県令に、
王修が就任するといった流れになったわけですね。
一兵も失わずに賊討伐を成し遂げた手腕
賊討伐を任された王修ですが、
力任せに賊を討伐する手段を取らず、頭を使って賊の懐柔に乗り出します。
武力による討伐は、あくまで最終手段として・・・
そこで王修がやったことはたったの二つのことでした。
①今からでも賊行為をやめる者は罪に問わない(親分以外)
②残った者達に対して、労役に服すれば罪を許す(親分を含む)
まず最初の宣言により多くの子分達が逃げ去ります。
そして残った者達も親分と共に労役に服する決定をしたことで、
味方の兵を一兵も失うことなく賊を帰順させることに成功したわけです。
孝廉に推挙
孔融は王修を高く評価し、孝廉へと推挙!!
しかし王修は孔融からの孝廉推挙を断ろうとするものの、
あまりに孔融がしつこかったので、最終的には承諾するに到ったのでした。
まぁ「孔融殿の顔を立てておきましょ」ってな感じだったのかもしれませんね。
そもそも孝廉とはなんぞやという人の為に軽く捕捉しておくと、
もともとは前漢全盛期を築いた武帝によって制定された郷挙里選の科目の一つになります。
もっと分かりやすく言うと地方の優れた人物を、
中央(朝廷)へと派遣する為の制度ということです。
ただ王修が孝廉に推挙される前からずっと、
中央政治の腐敗は進みに進んでいた為、結局王修が中央へ行くことはなかったようで、
そのまま孔融に仕え続ける事となります。
二番目の御主人様(袁譚・袁紹)
袁紹が力を伸ばし、青州へと勢力拡大に乗り出してくると、
孔融は青州から追い出されてしまいます。
そして新たに青州刺史に任じられたのは、
袁紹の長子である袁譚でした。
青州に留まっていた王修は、流されるままに袁譚に仕え、
青州を安定に導く役割として治中従事に任じられています。
ただ袁譚の取り巻きに疎まれる形となった王修は、
手腕を振るうことができず、はたはた困り果てていたようです。
袁紹配下は人の足を引っ張る自分さえよければみたいな人材が多すぎますからね・・・
ただ王修によって救いだったのが、
この複雑な状況に袁紹が救いの手を差し伸べたことでした。
袁紹は肩身が狭く、うまく仕事をこなすことができない王修を、
一旦袁紹直轄として呼び寄せたのでした。
そこから再び袁譚を補佐する役割を与えられるわけですが、
間に袁紹を挟んだ効果は非常に大きく、
欧州の手腕が発揮されたことで青州の統治は安定していったのでした。
袁譚の死
袁紹が曹操と官渡で激突して敗れ、
失意のうちに袁紹がこの世を去ってしまいます。
袁紹の死によって勃発したのが、
長男袁譚と三男袁尚による後継者争いだったわけです。
双方の争いが激化するにつれ、袁尚からの攻撃を受けて袁譚が敗北した際には、
いち早く王修が援軍としてかけつけた事もありました。
また劣勢を挽回する為に敵である曹操と結ぶことを提案したりしますが、
最終的に袁譚は曹操に討ち取られてしまいます。
この時も急ぎ援軍にかけつけていた王修でしたが間に合わず、
袁譚の首を見た王修は泣き崩れ、
曹操に袁譚の遺体を引き取って供養することを願い出ます。
曹操は王修の願いを聞きいれ、王修は袁譚の供養を無事に執り行うことができ、
主人であった袁譚に対して義理を貫いたのでした。
三人目の御主人様(曹操)
曹操はこのことがあってから王修を気に入って召し抱えます。
孔融・袁譚と続き、今度は曹操に仕えることとなった王修ですが、
曹操にも認められて、最終的に魏郡太守にまで出世!
また中央に呼び戻された際には、大司農兼郎中令に任じられています。
孔融→袁譚→曹操と敵側の御主人様に仕えていった王修ですが、
きちんと恩には恩をもって返し、筋を通した王修だからこそ、
孔融・袁譚・曹操それぞれから高く信頼されていったのでしょうね。