周不疑(しゅうふぎ、姓:周 名:不疑)

後漢末期、曹操が才能を高く評価した神童といえば、真っ先に名が挙がるのが曹沖でしょう。

 

幼くして並外れた知性を示した曹沖は、

曹操から深く寵愛され、後継者候補の一人として期待されていました。

 

後に魏の初代皇帝となる曹丕も、

「兄・曹昂が生きていたとしても後継者になれたかは分からない。

しかし曹沖が生きていたならば、自分が後を継ぐことはなかっただろう」

と語ったと伝えられており、その才能がいかに高く評価されていたかがうかがえます。

 

その曹沖と並び称されるほどの神童として知られたのが、周不疑でした。

周不疑は荊州零陵郡重安県の出身で、幼い頃から驚くほど聡明で、その才能は広く知られていました。

叔父にあたる劉先は、その資質をさらに伸ばそうと考え、劉巴のもとで学ばせようとします。

 

しかし劉巴はこれを辞退し、

「鳳凰を燕や雀と同じ庭で遊ばせるべきではない」

と語ったことが、「蜀志」劉巴伝(裴松之注「零陵先賢伝」)に記されています。

 

これは、周不疑ほどの逸材には、

凡人と同じ教育では才能を十分に生かせないという意味のたとえでした。

この逸話だけでも、当時の人々が周不疑をいかに高く評価していたかが分かります。

曹操に見出された俊才

周不疑の名声はやがて曹操の耳にも届きます。

曹操はその才能を確かめるために周不疑を招き、実際に会うと、その聡明さに深く感心したといいます。

 

「魏志」劉表伝(裴松之注「零陵先賢伝」)によれば、曹操は娘を妻として迎えさせようとし、

さらに議郎に任じようとしましたが、周不疑はいずれも辞退したと伝えられています。

 

曹操は曹沖の非凡な才能を高く評価していました。

そして、年齢の近い周不疑にも同じような将来性を見出し、曹沖を支える人物として期待を寄せていたと伝えられています。

二人はともに「神童」と称されるほどの才能を備え、魏の未来を担う存在として見られていました。

曹沖の死と周不疑の悲劇

しかし建安13年(208年)、

曹沖が病没すると、その期待は突然断たれてしまいます。

 

曹沖の死後、曹操は周不疑を殺害するよう命じました。

曹丕がこれに反対すると、曹操は曹丕に対して、

「この者はお前には制御できない。曹沖であればこそ用いることができた」

と語ったとされています。

 

この逸話が事実であるならば、曹操は周不疑の才能を高く評価すると同時に、

その才能ゆえに後継者にとって危険な存在になり得るとも考えていたのでしょう。

 

そして周不疑はわずか十七歳でその生涯を閉じた事が、「魏志」劉表伝(裴松之注「文章志」)に残されています。

 

 

周不疑に関する記載は裴松之が加えた注釈に残されているものばかりで、

それ以外に関しても周不疑に関する資料は限られています。

 

しかし、幼くして天下に名を知られ、

劉巴・曹操ら当代一流の人物から将来を期待されたことは、彼の卓越した才能を物語っています。

 

その一方で、若くして命を落としたため、

その能力を政治や軍事の場で十分に発揮する機会はほとんどありませんでした。

それでもなお、周不疑は後漢末を代表する「神童」の一人として、現在までその名を伝えられています。