龐統(ほうとう 字:士元)

龐統は、荊州襄陽郡の名門・龐氏の出身で、

後に劉備に仕え、益州攻略において中心的な役割を果たしました。

 

その卓越した才能から、「鳳雛(ほうすう)」の号で広く知られています。

この呼称は、人物鑑定で名高い龐徳公が与えたものであり、「臥龍」と称された諸葛亮と並び称される存在でした。

 

なお、正史『三国志』では諸葛亮を「臥龍」と記しており、

「伏龍」は後世の文献などで用いられる呼称です。

 

龐統は若い頃、容姿が優れていたわけではなく、

口数も少なかったため、当初は世間から高い評価を受けていませんでした。

 

しかし、荊州の名士であった龐徳公や司馬徽は早くからその非凡な才能を見抜き、「鳳雛」と称えて高く評価しました。

これを契機に、龐統の名声は荊州一帯へと広がっていきます。

その後、郡の功曹となり行政手腕を発揮しました。

呉の名士たちとの交流

建安15年(210年)、

周瑜が南郡太守在任中に病没すると、龐統は遺体を呉へ送り届ける役目を務めました。

その帰路には、呉の俊才である陸績・顧邵・全琮らが見送りに訪れています。

 

彼らとは人物論を語り合うほど親交が深く、別れ際には、

「天下が太平となれば、再び四海の人物を論じ合いましょう。」

と語り合ったと伝えられています。

 

また龐統自身も人物鑑定に優れ、

  • 陸績を「駿馬」
  • 顧邵を「歩みは遅いが力強い牛」
  • 全琮を名士・樊子昭になぞらえる

など、それぞれの長所を巧みに評価しています。

 

龐統は人物評価を好み、その評価はしばしば実際以上に高いものでした。

 

ある人から、

「なぜそこまで褒めるのですか。」

と問われると、龐統は次のように答えています。

「今は天下が乱れ、正道は衰え、善人は少なく悪人が多い。

だからこそ人を少し大げさに褒め、名誉心を満たしてやれば、善を行おうとする者は増える。

志ある者に希望を与えることもまた世を治める道である。」

 

この言葉は、龐統が単なる人物評論家ではなく、

人材育成という観点から人物を評価していたことを物語っています。

劉備への仕官

横山光輝三国志(30巻164P)より画像引用

 

赤壁の戦い後、劉備が荊州を領有すると、龐統はその幕下に加わりました。

最初は耒陽県令に任命されましたが、政務を十分に行わなかったため免職されています。

しかし、これは龐統の能力不足によるものではありませんでした。

 

魯粛は劉備に宛てた書簡で、

「龐統は百里四方の県令として用いるような人物ではありません。」

と述べ、その大器を高く評価します。

 

さらに諸葛亮も龐統を推薦したため、劉備は再び召し抱え、軍師中郎将に任命しました。

この官職は諸葛亮と同格であり、劉備が龐統を極めて高く評価していたことがうかがえます。

 

ちなみに横山光輝の三国志では、副軍師中郎将との肩書になっています。

益州攻略を進言

当時の劉備は荊州だけでは勢力基盤として不十分であり、

豊かな益州の獲得が将来の課題となっていました。

 

しかし益州牧・劉璋は同じ漢王室の宗族であったため、劉備は侵攻をためらっていました。

 

龐統は、

「乱世において天下を治めるには、益州の獲得は避けられません。」

と説き、劉備に決断を促します。

 

その結果、劉備は益州攻略を決意しました。

なお、この遠征では龐統が劉備に同行し、諸葛亮は荊州の留守を任されています。

入蜀で見せた軍略

益州へ入った当初、劉璋は劉備を厚く歓迎し、宴席まで設けました。

 

この好機を見た龐統は、

「今ここで劉璋を捕らえれば、戦うことなく益州を得られます。」

と進言しました。

 

しかし劉備は、

「私は客人として迎えられたばかりであり、信義に背くことはできない。」

として、この策を退けています。

 

その後、劉備軍は北方の張魯を警戒する姿勢を装いながら機会をうかがいました。

 

龐統はさらに三つの作戦を献策します。

  • 昼夜兼行で成都を急襲する「上計」
  • 関所の守将を欺いて突破する「中計」
  • 一度撤退して態勢を整える「下計」

 

そして劉備は「中計」を採用しました。

これにより白水関を守る楊懐・高沛を誘い出して討ち取り、白水関を占領することに成功します。

これは益州攻略における大きな転機となっています。

劉備を諫めた忠臣

その後、劉備軍は各地で勝利を重ねました。

 

ある宴席で、劉備が勝利を喜ぶ姿を見た龐統は、

「仁義を掲げる御方が、他人の国を奪ったことを喜ばれるのはいかがなものでしょう。」

と率直に諫めました。

 

劉備は一度怒って龐統を退席させますが、すぐに自ら非を悟り、呼び戻します。

 

劉備が、「先ほどはどちらが間違っていたのでしょうか。」と尋ねると、

龐統は、「君臣ともに誤りがございました。」と答えました。

 

これに劉備も笑い、場は和やかな雰囲気へ戻ったと伝えられています。

 

この逸話は、龐統が主君に対しても遠慮なく諫言できる人物であり、

一方の劉備もそれを受け入れる度量を備えていたことを示しています。

雒城での最期

益州攻略は順調に進み、劉備軍は成都手前の要衝・雒城を包囲しました。

しかし建安19年(214年)、この包囲戦の最中、龐統は敵の放った流れ矢に当たり戦死します。

享年は三十六歳でした。

 

劉備はその死を深く悲しみ、大いに涙したと伝えられています。

龐統の死後、関内侯が追贈され、蜀漢の景耀3年(260年)には「靖侯」の諡号が贈られました。

 

 

『三国志』の著者・陳寿は、龐統と法正を同じ列伝に収め、

「龐統は人物鑑定を好み、経学と策謀に優れ、荊楚地方第一の俊才として知られていた。」

と高く評価しています。

 

さらに、

「龐統の才能は、魏でいえば荀彧に比肩する。」

と評しており、その政治力・戦略眼・人材登用能力はいずれも当代屈指であったことがうかがえます。

またこの時に龐統を荀彧に比肩したのに対し、法正を程昱・郭嘉に比肩すると書かれています。

 

 

後世では「鳳雛」の異名や、

諸葛亮と並び称された軍師として語られることの多い龐統ですが、

正史に描かれる姿は、優れた戦略家であると同時に、人材を見抜く眼と、人を育てようとする温かさを兼ね備えた人物でした。

 

益州攻略では数々の献策によって劉備軍を勝利へ導き、自らも最前線に立って戦いました。

その早すぎる戦死は、蜀漢にとって大きな損失であり、劉備が深く悲しんだのも無理からぬことでしょう。

 

もし龐統が雒城で命を落とさず、諸葛亮とともに蜀漢の中枢を支え続けていたならば、

その後の歴史は大きく変わっていたかもしれません。