張純の乱

張純は、中山郡の太守でしたが、

185年に西涼で辺章・韓遂らが反乱を起こすと、

後漢は、張温に辺章・韓遂討伐をするように命じました。

 

その際に、張純は自分も従軍させてほしいと願い出ますが、

その願いは聞き届けられず、公孫瓚を従軍させました。

 

これに不満を覚えた張純は、

187年に同郷の友で、泰山軍の太守だった張挙を誘って反乱を起こします。

 

そして、張挙は皇帝を、

張純は弥天将軍・安定王を勝手に名乗っています。

 

三国志では後漢の皇帝以外に、

魏の曹丕、蜀の劉備、呉の孫権、成の袁術が皇帝となっていますが、

彼らより先に張挙が皇帝を名乗っていたのです。

 

 

そして北方民族である鳥丸が参加し、

部隊長である丘力居(きゅうりききょ)がこの反乱に協力します。

 

張純が最初に決意した反乱だったので「張純の乱」と言われていますが、

実際は張純・張挙・丘力居による反乱でした。

 

この反乱は、辺章・韓遂の乱よりも規模が大きくなり、

5万ほどの兵力に膨れ上がっています。

張純・張挙VS公孫瓚

幽州を中心に冀州・青州・徐州でも暴れていた張純・張挙ですが、

この討伐に公孫瓚が指名されます。

 

公孫瓚と対峙した張純・張挙ですが、公孫瓚軍に蹴散らされ、

二人は北方民族の鮮卑を頼って逃亡しています。

 

ちなみに公孫瓚は二人を追って深追いしますが、

深追いしすぎて、逆に丘力居に包囲され、苦戦を強いられてしまいます。

劉虞が幽州に赴任

公孫瓚が丘力居に苦戦を強いられていた時、

劉虞(りゅうぐ)が幽州の牧として赴任してきます。

 

そして逃亡していた張純・張挙に対して懸賞金をかけ、

鳥丸・鮮卑・匈奴の北方民族に対して懐柔策を実施します。

 

これを聞いた反乱軍に加勢していた丘力居は、

この待遇に喜び、劉虞に帰順しています。

 

 

丘力居が劉虞に帰順した事で、

張純・張挙は完全に孤立してしまいます。

 

最終的に張純は部下の王政(おうせい)に裏切られ、

張純の首は、劉虞に届けられます。

 

張純は討たれましたが、

張挙はどうなったのかというと、その後の資料は残っていません。

 

ちなみに三国志演義の方では、

張純が討たれた後、張挙は自害した事になっています。

劉虞と公孫瓚

劉虞と公孫瓚はこの張純の乱をきっかけに、

関係が非常に悪化していきます。

 

自分を苦しめた丘力居が公孫瓚自身ではなく、

劉虞に帰順したことも非常に納得のできないものでした。

 

実際丘力居が、劉虞に対して帰順する旨の使者を送る際も、

公孫瓚は邪魔しています。

 

そしてこの対立は、

最終的に劉虞の悲劇へと繋がっていくのです。

負けるべくして公孫瓚に敗北した劉虞&むちゃぶりも甚だしい公孫瓚