関羽=美髯公の由来

関羽は立派な髯(ひげ)を蓄えており、「美髯公」という別名を持ってたりしていました。
三国志演義では、関羽が曹操に降伏した際に、関羽が献帝に拝謁するシーンがあるのですが、
関羽の口髭を見た献帝は、関羽の立派な髯に対して次の言葉を掛けています。
| 貴方は本当に美しい髭を持った美髯公でおられますね。 |
三国志演義の話ではありますが、この逸話が美髯公の由来となっています。
ちなみにひげにも色々ありまして、
関羽の場合は「ほおひげ」を意味する「髯」の漢字が使われています。
他には口と鼻の間に生える「髭(口髭)」や顎に生える「鬚(顎鬚)」
といったように場所によって使われる漢字が違います。
三国志演義では孫権の容姿を「碧眼紫髯(青目&赤髯)」と書いており、
関羽同様「髯」が使われています。
※三国志演義にのみ記載が残る孫権の風貌です。
| 「呉志」呉主伝(裴松之注「献帝春秋」)では、
張遼が孫権のことを紫髯将軍と述べているので、紫髯の方は正史でも記録が残る内容です。
他にも孫権の風貌として、「呉志」呉主伝(裴松之注「江表伝」)に、 「方形の頤に大きな口&目に精光あり」とあります。
これが言いたい事として、孫権はエラが張っており、口が大きいといった特徴をしていたということです。 |
鬚(顎鬚)の参考人物
鬚(顎鬚)の代表者といえば、美髯公の関羽の弟分である張飛の「虎鬚」が有名です。
ちなみにですが三国志演義同様に、四大奇書とされる小説に水滸伝があったりするのですが、
ここに登場する林冲は張飛を基にして作られたと言われており、張飛同様に「虎鬚」だったと書かれています。
林冲の武器が蛇矛であり、張飛と同じ武器であるというのも理由ですが、
三国志演義での張飛の風貌を次のように書かれています。
| 身長八尺 豹頭環眼 燕頷虎鬚 聲若巨雷 勢如奔馬 |
一方の林冲もまた張飛と同様の風貌で書かれており、張飛同様に虎鬚であると書かれてあります。
| 豹頭環眼 燕頷虎鬚 |
他にも曹操の息子である曹彰が「黄鬚」と呼ばれていましたが、
張飛・林冲同様に顎鬚を表す漢字です。
また曹操の参謀の一人である程昱も美しいひげを蓄えており、
美しい顎鬚・頬髯をしていたことから、二つの漢字を使って「美鬚髯」と残されています。
曹操より髯袋を贈られた関羽
関羽が曹操に髭についての悩みを相談したことがありました。
| 秋になると数本程度、毎月抜けてしまうのです。 |
月に数本ならば普通に生活してても、抜けたりするのは普通じゃないかなと思いますが、
関羽はこれを非常に気にしていたようで、それほどに髯へのこだわりが強かったということでしょう。
これを聞いた曹操は、関羽に少しでも喜んで貰おうと綿の髯袋を関羽に贈りました。
金銀財宝等には喜びもしなかった関羽ですが、髯袋は大変に喜んで愛用したようです。
他にも次のような逸話がありますので、折角なので紹介しておきたいと思います。
馬超が劉備の傘下に降った時の話ですが、
荊州の守りを任されていた関羽は馬超の事が大変に気になっていました。
関羽は「馬超の才能は誰に匹敵しているのか?」と諸葛亮に手紙を書いて訊ねており、
諸葛亮は関羽の髯を褒めて機嫌を取った逸話が残っています。
| 馬超殿は文武の才を備えた一代の傑物であり、
黥布(劉邦の功臣)や彭越(劉邦の功臣)に匹敵するほどの人物です。
張飛殿と比較しても見劣りする事はないでしょう。ただ髯殿には及びません。 |
曹操から頂いた髭袋は返さなかった関羽

横山光輝三国志(18巻52P)より画像引用
曹操の世話になっていた関羽ではありますが、
劉備の居所が分かった途端に曹操の元を去っています。
もちろん世話になった曹操に恩返しもしなかったわけではなく、
曹操軍を苦しめた顔良・文醜の二人を戦場にて討ち取っています。
| ちなみに関羽が顔良を討ち取った話は正史にも残されていますが、
文醜に関しては関羽が討ち取ったわけではなく、荀攸の計略に引っかかる形で討死しています。 |
そしてここからが五関突破であったり、五関六将斬りで知られる関羽の千里行の話になります。
劉備の御夫人を守っての突破であり、
三国志演義でも結構な名場面ですので、知ってる人も多いでしょう。
ちなみに関羽が曹操の元を去る際に、曹操から頂いた物は全て置いて去っています。
ただこ実際には気に入っていた髭袋と赤兎馬は返していません。
まぁ使用済みの髭袋を置いていっても、曹操は処分するしかないとは思いますし、
布袋然り、赤兎馬然り実用的なものは返却せず、きちんと貰っていっていおる点は覚えておきましょう。





の出生に隠された秘密-父親は曹丕or袁煕!?-100x100.png)
