虎士(こし)の前身にあたる曹操の警護役

曹操は「虎士」という

精鋭歩兵部隊を所持していました。

 

もともと曹操は自分自身を守る警護役に、

絶大な信頼を寄せいた典韋に任せていました。

 

 

 

しかしそんな典韋をふとした出来事で失ってしまいます。

 

 

曹操が張繍の守る宛城へ入場したまではよかったですが、

賈詡(かく)の計略にはまる形で惨敗してしまいます。

 

曹操が張済の未亡人であった鄒氏に、はまったというのは有名な話です。

 

 

 

正史には「鄒氏」のような直接的な書き込みはされていませんが、

 

「張済の元妻で、後に曹操の妾になった女性がいた」

というふうな記載が残っていますので、

 

名前が分かっていないだけで、

そこに曹操の妾になった女性がいたのは間違いないでしょう。

 

 

だれもいなかったとなると、

この戦いで曹操を守るために死んでいった典韋・曹昂・曹安民が浮かばれませんからね。

 

 

 

とにかくこの張繍討伐戦で、

曹操護衛の為のスペシャリストであった典韋は亡くなってしまうのでした。

 

蒼天航路(10巻79P)より画像引用

実際は三国志演義以上に壮絶な最後を遂げた典韋

 

 

 

張繍討伐戦で典韋を失ったことで、

警護役を引き継いだのが許褚でした。

 

 

 

三国志演義では、

「典韋と一騎打ちをして引き分けた」

という話として描かれたりした人物ですし、

 

実際正史に残る許褚像もなかなかのものです。

 

 

そして「虎士」という部隊が完全に誕生したのは、

許褚が曹操の護衛役に任じられてからのお話になりますね。

虎士の親分、許褚(仲康)

許褚は身長も高く(約184cm)、

大柄であった人物でした。

 

片手で牛の尾を掴んで引っ張ったという逸話

なども残っていたりします。

 

 

そして許褚が曹操に帰順した際には、

「我が樊噲である」

と曹操にいわしめたほどの人物となってます。

 

 

ちなみに樊噲のことを簡単に一言でまとめてしまうと、

劉邦(漢王朝の祖)に仕えた豪傑ですね。

 

 

 

ただ牛の逸話からも分かる通り、虎のような力を持っており、

普段は痴(頭の回転が遅くて、ぼけっとしている)であることが由来となって、

 

許褚のことを虎痴こちと呼ばれることも多かったようです。

 

 

「実際に許褚ではなく、虎痴が本当の姓名だ!」

と思っていた人も当時多かったとか・・・

 

馬超は許褚を「虎侯」と呼んだ話などは有名ですよね。

 

 

そして許褚と一緒に帰順した者達も含め、

許褚の部隊が「虎士」と呼ばれるになっていくのでした。

許褚 -生涯にわたって曹操を守り抜いた豪傑-

虎士出身者というだけでエリートの者達

許褚が率いた虎士ですが、

虎士に在籍した者達は、

その後に数十人も将軍や諸侯に出世したといいます。

 

 

またそれだけではなく、

百人以上の者が都尉や校尉に出世したわけです。

 

 

だからこそ許褚が率いた虎士の部隊に入ることは、

曹操の元で出世する為の近道だと言われるようになったといいます。

 

まぁ選りすぐった者達だけが入れる部隊だったでしょうから、

そもそも虎士に入隊することが難しかったと思いますが・・・

 

 

 

また許褚が率いた「虎士」が精鋭歩兵部隊なら、

曹純が率いた精鋭騎兵部隊虎豹騎(こひょうき)という部隊もあったりします。

 

 

とにもかくにも「虎士」と「虎豹騎」が、

曹操軍に与えた影響は計り知れるものではなく、

 

曹操が勢力を拡大していく上で、

大きな活躍をしていったことだけは間違いないでしょうね。

曹操の精鋭騎兵隊・虎豹騎(こひょうき)の力を引き出した曹純