倉慈(そうじ)

倉慈は、自分の出身である淮南郡で

最初は役人をしていました。

 

曹操が屯田制を始めた頃、

寿春で希望者を募っていました。

 

倉慈はここで、

綏集都尉(すいしゅうとい)に取り立てらます。

 

 

その後倉慈は、長安の県令になりますが、

清廉潔白で、慈愛の精神で、筋を通した政治を行います。

それによって、多くの民衆から慕われて愛されます。

 

長安の県令を経てから、

倉慈は敦煌郡の太守に任命されます。

 

 

しかしこの敦煌郡という場所が問題で、

形上は朝廷の支配地でしたが、

 

韓遂や馬騰が反乱を起こしていた所よりも奥地になり、

朝廷の威光など全く届いていない場所でした。

 

その為、太守が空席になったままという状態も多く、

その地方の豪族が決めたルールによって統治されていました。

 

 

そんな状態の敦煌郡でしたが、

曹丕が魏を建国した翌年(220年)、

尹奉(いほう)が敦煌太守に任命されます。

 

その地方の豪族の決めた習わしを変える事ができないと判断し、

豪族に逆らわずに過ごします。

 

そんな状態が続いたため、尹奉に代わって、

倉慈が敦煌太守に任命されることとなったわけです。

倉慈の敦煌改革

 

倉慈が敦煌太守に任命されてまっ先にやった事は、

地方豪族の力を弱める事でした。

 

その為に、豪族が支配していた土地を、

貧しい人達に再分配していきます。

 

再分配以外にも、

次々と貧しい人達の救済に尽力します。

 

長安の県令を務めた経験をもとに、

清廉潔白で筋の通った政治で統治していきます。

 

 

またこの地域は、

多くの犯罪が横行していました。

 

しかし、倉慈自ら一つ一つの問題に取り組み、

犯罪者に対しても重い罰を与える事もありませんでした。

 

その為、敦煌郡では、

死刑になるものは二桁もいなかったそうです。

つまり一桁で収まっていたのです。

シルクロードの復活

もともと西域の人達は、敦煌郡を通って中国に入り、

交流を盛んにしていました。

つまりシルクロードを利用していたわけです。

 

しかし地方豪族の支配が長く続いていた為、

西域の人達の通行を妨げていました。

 

また通行を許したとしても、

不正が頻繁に行われているのが現状でした。

 

 

しかし倉慈は、魏の首都であった洛陽に行きたい者に、

通行許可証を発行してあげます。

また道中の安全確保の為に護衛兵をつけてあげていました。

 

逆に洛陽などから帰還したい場合には、

皆平等に面倒を見てあげたので、

倉慈を称える声があふれていく事になります。

 

そんな倉慈も寿命には勝てず、

この世を去ります。

 

 

倉慈が死去してからも、

敦煌の民は、倉慈を慕い続け、

 

漢民族ではない者達は、自らの剣で顔を傷つけて、

忠誠を誓う者も多発したようです。

 

そして敦煌の為に尽力した倉慈は、

敦煌郡の人達に、シルクロードを利用する者達に、

神として祀られていく事になるのです。

倉慈死後の敦煌郡

 

倉慈がこの世を去ると、王遷・趙基と後任が続き、

敦煌郡を治めた倉慈のやり方を真似して引き継ぎますが、

倉慈ほどの信望を得る事はありませんでした。

 

しかし倉慈のやり方を真似るだけでも効果は高く、

この地域は安定が維持されていきます。

 

 

その後、趙基の後任として、

皇甫隆(こうほりゅう)が任命されます。

 

皇甫隆は、水路を作って田畑に必要な水を引き、

農業の発展に尽くします。

それ以外には、耬犂の作り方を広めます。

 

耬犂とは聞きなれない言葉かもしれませんが、

田んぼを作る際に、馬や牛で耕すのが一般的ですが、

これに床締めの作業をし、水が逃げるのを防ぐ役割があります。

 

そのやり方を敦煌郡で普及させたのです。

 

敦煌郡の発展に尽くした皇甫隆は、

倉慈に及ばないまでも、それに次ぐ者として評価されたそうです。