衛覬(えいき)

衛覬が若かりし頃、曹操に登用され、

茂陵令・尚書郎となります。

 

衛覬は、書道の名人で、

篆書体・隷書体の少し癖がある字を使っていました。

 

この当時、美しく文字を書ける衛覬は、

人々から尊敬されていました。

 

 

衛覬は、曹操が袁紹と対決する際に、

重要な任務を任されます。

 

その任務とは、益州の劉璋と同盟を組む事で、

荊州を治めていた劉表を牽制することでした。

 

この頃、袁紹と劉表は同盟を組んでおり、

巨大な勢力である袁紹と戦うだけでも大変な状態であり、

そんな時に曹操の背後を劉表につかれるわけにはいかなかったからです。

 

 

衛覬が益州に向かう為に長安まで来たのですが、

ここで問題が発生します。

 

それは関中から益州へ向かう道が、

馬超・韓遂に封鎖されていたのです。

 

その為、衛覬は益州へ向かう事を諦め、

関中に留まります。

関中の状況

そもそも関中とは、司州の左地域の呼び名で、

馮翊郡・扶風郡・京兆尹の郡のことをいいます。

有名どころでいえば、長安も関中です。

 

この地域は、董卓・李傕・郭汜が支配した土地で、

この地域は荒廃し、多くの民衆がこの地を離れてしまっていました。

 

そして衛覬が劉璋への使者として派遣された時には、

馬超や韓遂がこの地を支配していた為、

益州への道が封鎖されていました。

衛覬、荀彧に手紙を送る

 

関中に留まっていた衛覬ですが、

関中の状況を改善させる為に荀彧に手紙を送ります。

 

「この地は現在荒廃し、

多くの民衆が子の地から離れていましたが、

 

最近になって、離れていた民衆も

この地に戻ってきています。

 

しかし戻ってきた民衆を、

私兵として組み入れている勢力がおり、

その中でも馬超や韓遂に関しては、非常に大きな勢力になりつつあります。

 

 

今のうちに国が塩の専売を管理すれば、

莫大な利益を得られます。

 

また塩で得られた利益を関中の民衆に還元すれば、

民衆をこちらに取り込むことも可能でしょう。

 

そうすれば馬超や韓遂といった勢力は、

自然と衰えていく事でしょう」

 

といった内容を記載し、

早急に関中を復興させる重要性を説きます。

 

手紙を受け取った荀彧は、衛覬の考えに賛成し、

それを曹操に伝えた結果、関中整備に取り組むことになります。

その後の衛覬

関中のことで曹操から信頼を得た衛覬は、

中央に呼び戻され、尚書まで出世しています。

 

また王粲(おうさん)とともに

魏建国の礎となる様々な制度を作り上げています。

 

衛覬・王粲らの功績もあって、

曹丕は、後に「魏」を建国することになります。