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王粲(字:仲宣)

王粲は、建安文学を代表する「建安七子」の筆頭として知られ、
その卓越した文章力と驚異的な記憶力によって大きな名声を博しました。
一方で、単なる文人ではなく、政治・礼制・制度整備にも深く関わった実務家でもありました。
また王粲は山陽郡高平県の名門王氏の出身です。
曾祖父の王龔、祖父の王暢はいずれも後漢朝廷の最高位である三公を務めた名臣でした。
幼少期から学問を好み、とりわけ文章作成に非凡な才能を示したといわれています。
文章を書く際にはほとんど推敲を必要とせず、一気に書き上げることができました。
周囲の人々は、
「前もって作っていた文章を暗記しているのではないか」
と疑ったほどでしたが、実際には膨大な読書と研鑽によって培われた能力だったと伝えられています。
蔡邕が見抜いた天才
王粲の名を世に知らしめたのは、
後漢を代表する学者・文人である蔡邕との出会いでした。
王粲がまだ十代前半の頃、長安で蔡邕を訪ねた際のことです。
蔡邕は王粲を見るや、その才能を見抜き、周囲の人々に対して次のように語ったといいます。
| 私は年老いた。私の持つ学問や知識は、すべてこの少年に譲るべきだ。 |
当代最高の知識人からこれほどの評価を受けた人物は極めて稀でした。
やがて王粲は十七歳頃に朝廷から高官への推挙を受けますが、
当時の長安は政局が極めて不安定であったため、これを受けずに長安を去りました。
その後、董卓政権崩壊に伴う混乱の中で蔡邕自身も処刑されており、
結果的に王粲の判断は自身の命を守ることにもなりました。
荊州で埋もれた才能
長安を離れた王粲は、劉表を頼って荊州へ赴きます。
しかし劉表は人物を見る目に必ずしも優れていたわけではなく、
容姿が華奢で病弱そうに見えた王粲を評価しませんでした。
そのため王粲は長年にわたり重要な地位を与えられず、不遇の日々を送ることになります。
しかしその間も学問と文学の研鑽を続け、
後に建安文学を代表する作品群を生み出していきました。
とくに戦乱の世を嘆いた代表作『七哀詩』は、現在でも王粲文学の最高傑作として知られています。
王粲による「七哀詩(其一)」
西京亂無象(西京 乱れて象無く)
豺虎方遘患(豺虎 方に患いを遘う)
西の都・長安は戦乱によって秩序を失い、世の中はすっかり乱れ果ててしまった。
凶暴な豹や虎のような者達(李傕・郭汜)が世にはびこり、人々に災いをもたらしている。
復棄中國去(復た中国を棄てて去り)
遠身適荊蠻(身を遠ざけて荊蛮に適く)
だから私は再び都を捨て去り(一度目は董卓遷都前の洛陽)、
遠く荊州の地へと身を寄せることになった。
親戚對我悲(親戚 我に対して悲しみ)
朋友相追攀(朋友 相追攀す)
親族たちは私の行く末を案じて涙を流し、
友人たちは名残を惜しんで袖を引き留める。
出門無所見(門を出でて見る所無く)
白骨蔽平原(白骨 平原を蔽う)
しかし旅路に出れば、目に映るのは悲惨な光景ばかりであった。
無数の白骨が野にさらされ、広々とした平原を覆い尽くしている。
路有飢婦人(路に飢えたる婦人有り)
抱子棄草間(子を抱きて草間に棄つ)
道端には飢えに苦しむ一人の婦人がいた。
彼女は幼い我が子を抱いていたが、
生き延びるために、その子を草むらへ置き去りにする。
顧聞號泣聲(顧みて号泣の声を聞くも)
揮涕獨不還(涕を揮いて独り還らず)
後ろから我が子の激しい泣き声が聞こえてくる。
婦人も振り返り、涙をぬぐった。
それでも彼女は歩みを止めず、ただ前へ進み続けるしかなかった。
未知身死處(未だ身の死する処を知らず)
何能兩相完(何ぞ能く両ながら相い完うせん)
私一人でさえ、いつ野垂れ死にしても不思議ではないのです。
どうしてこの子まで連れて行けるでしょうか。
驅馬棄之去(馬を駆りて之を棄てて去る)
不忍聽此言(此の言を聴くに忍びず)
馬に鞭を打って駆け出した。
これ以上その悲痛な声を聞いていることができなかった。
南登霸陵岸(南のかた霸陵の岸に登り)
回首望长安(首を迴して長安を望む)
長安の南にある覇陵のほとりに登り、
振り返って遠く長安の方向を眺めた。
悟彼下泉人(彼の下泉の人を悟り)
喟然伤心肝(喟然として心肝を傷ましむ)
乱世を嘆き善政を願う昔の人々の気持ちが収められた詩(詩経/曹国の詩)があるが、
その気持ちが痛いほど分かってしまった。
そして深いため息をつき、胸の奥底まで悲しみに打ちひしがれたのである。
曹操への帰順
建安13年(208年)、曹操が荊州へ南下すると、劉表の後継者である劉琮は降伏を検討します。
この際、王粲は蔡瑁らと共に降伏を支持しました。
これは単なる保身ではなく、
「曹操こそが天下統一を最も現実的に進められる人物である」
という政治判断によるものだったと考えられています。
曹操は王粲の才能を高く評価し、軍謀祭酒に任命しました。
曹魏を代表する文人へ
曹操の幕府に入った王粲は、その文章力によって一躍重用されるようになります。
当時の曹操陣営には、
- 陳琳
- 徐幹
- 応瑒
など多くの文人が集まっていましたが、その中でも王粲は筆頭格とされました。
また、朝廷へ提出する上奏文の作成では、鍾繇や王朗といった一流の政治家たちでさえ、
「王粲がいるなら任せた方がよい」として筆を置いたと伝えられています。
それほどまでに文章作成能力が突出していたのです。
王粲の功績は文学だけではありません。
後漢末の戦乱によって失われていた礼制や儀礼制度の復元にも携わりました。
特に有名なのが「玉佩(ぎょくはい)」の復元です。

玉佩とは高位の人物が礼服に身につける玉製の装飾品であり、古代中国の礼制を象徴する存在でした。
戦乱によってその制度や形状が失われていましたが、王粲は古典知識をもとに復元に成功しました。
曹魏の礼制整備において、この功績は非常に大きな意味を持っています。
現在も使われる玉佩は、王粲によるお陰で今日まで受け継がれたということになります。
驚異的な記憶力(石碑暗記&囲碁盤復元)

王粲には数々の記憶力に関する逸話が残されています。
石碑暗記の逸話ある日、王粲は道端の石碑を読んでいました。
同行者が、「内容を覚えていますか」と尋ねると、王粲は「もう覚えました」と答えます。
そこで背を向けさせて暗唱させたところ、一字一句違わず再現したといいます。
また囲碁の対局を見物していた際、誤って碁石が盤上から散乱してしまいました。
王粲は一度見ただけの局面を記憶しており、元通りに並べ直します。
対局者は信じず、別の碁盤を用意して再現させましたが、王粲は再び完全に同じ局面を復元したと伝えられています。
これらは「魏志」王粲伝に見える有名な逸話です。
早すぎた死
建安22年(217年)、王粲は疫病によって41歳で亡くなりました。
この年には建安文学を支えた多くの文人たちも相次いで病没しており、
「建安の疫病」とも呼ばれています。
曹操は王粲の死を深く惜しみました。
さらに王粲の死後、その二人の息子が魏諷の反乱計画に連座して処刑されたため、王粲の嫡流は断絶してしまいます。
後に曹操は、
「私が都にいたならば、
王粲の家を絶やすようなことにはならなかっただろう」
と嘆いたと伝えられています。
王粲は優れた政治家や軍師として名を残した人物ではありません。
しかし文学・礼制・学問の分野においては、後漢末から三国時代にかけて最高峰の知識人の一人でした。
ちなみに『三国志(裴松之注)』には、王粲が著した「英雄記」の注釈が多く加えられています。
もし王粲が長命であったならば、曹魏文化の発展にさらに大きな足跡を残したであろうと考えられています。
まさに王粲は、「乱世が生んだ天才文人」と呼ぶにふさわしい人物だったと言えるでしょう。


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