文聘(ぶんへい)

文聘はもともと劉表に仕えていた人物で、

荊州北部を守っていました。

 

劉表が死去すると、

劉琮にそのまま仕えることになります。

 

しかし曹操が攻めてくると、

戦わずずに劉琮は降伏してしまい、

 

劉琮らと共に曹操の前に行く事を勧められますが、

文聘は「国を守れなかったからには、後は処罰を待つだけです」

と言って頑なに拒否します。

実は曹操と戦う気でいた劉琮

忠義の士

 

曹操が漢水を渡った時に、

文聘はようやく曹操の前に出頭します。

 

曹操は文聘に問います。

「何故今頃になって出頭する気になったのか?」

 

文聘は涙を流して答えます。

「荊州を守る事ができなかった事が情けなく、

すぐに出頭する気になれなかったのです」

 

これを聞いた曹操は、

文聘の劉表・劉琮に対する忠義に感心し厚遇して迎えます。

 

そして曹操は、文聘に兵を授け、

曹純と共に劉備の追撃を命じて、長坂坡で劉備軍を撃破しています。

 

曹操は、すぐに兵を授けて追撃させた事からも、

それだけ文聘の忠義の厚さを信用したのでしょうね。

江夏太守を任せられる

 

曹操は勢いに任せて、劉備を追い払い、

荊州全土を制圧します。

 

しかし孫権と国境が近かった江夏の地だけは、

安定していませんでした。

 

これから孫権と決戦を控えていた曹操は、

重要地点である江夏の守備を文聘に任せます。

 

その期待に応えて江夏を守り抜き、

また関羽討伐戦などでも成果を上げています。

江夏の守護神

曹操が死去し、その跡を継いだ曹丕もこの世を去った時に、

孫権が5万の兵を率いて江夏へ攻め込んできます。

 

文聘は城を懸命に守り、

1ヵ月弱で孫権軍は城の包囲を解いて撤退しています。

 

その際潘璋(はんしょう)が孫権軍の殿を務めますが、

潘璋の殿部隊が混乱を起こすと、その隙をついて打ち破ります。

 

 

その後も孫権は、

江夏を攻略すべく何度も攻め込みますが、

 

死ぬまで江夏の地を守り抜き、

孫権の侵攻を全て食い止めました。

 

243年7月、曹芳(曹叡の後を継いだ皇帝)は詔勅を下し、

曹操の廟庭に功臣20人を祭っていますが、その中に文聘も含まれたそうです。

三国志演義での文聘

三国志演義での文聘は、

蔡瑁の企てた劉備暗殺計画に加担した一人として登場します。

 

その後、荊州に動乱につけ込んで魏延が蔡瑁を追い払い、

劉備を迎え入れようとしますが、文聘によって阻止されています。

 

 

その後、曹操に降った文聘は、

正史と同様に長坂坡の戦いで劉備を追撃しますが、

 

曹操に降伏し、国を守れなかった文聘の不忠を劉備に指摘され、

それを恥じ入ってそれ以上の追撃をせず撤退しています。

 

 

また、赤壁の戦いの水上戦では黄蓋によって矢を射られ、

陸上戦では周泰・韓当によって蹴散らされています。

 

そして赤壁で危機に陥っていた曹丕を懸命に守って、

赤壁の地を脱出しています。

文聘の評価

三国志正史を描いた陳寿は、文聘は州郡を守り抜き、

威厳と恩恵を示した人物であると称賛しています。

 

 

また晋が天下統一後の歴史家である孫盛(そんせい)は、

文聘の事を臧覇と共に次のように称えています。

 

「忠孝の道は一つである。

臧覇は若くして孝行の道を尽くし、文聘は涙で誠実さを示している。

 

その結果、曹操は二人に対して同じ態度をとり、

重要な任務を彼らにまかせた。

 

武勇に優れているものだけが、

慌ただしい戦場の中で認められただけではない」

 

 

正史では忠義を貫き、

曹操の期待に応えた文聘ですが、

 

三国志演義では、

色々と損な役回りを与えられている感じがします。