董襲(字:元代) -孫策・孫権の二代に仕えた呉の猛将-

董襲は、後漢末から三国時代初期にかけて活躍した呉の武将です。

 

正史『三国志』では「武勇に優れ、忠義に厚い将軍」として描かれており、

特に孫権への忠誠心の強さで知られています。

呉の名将といえば周瑜・呂蒙・陸遜などが有名ですが、董襲もまた孫家草創期を支えた功臣の一人でした。

 

董襲は揚州会稽郡余姚県の出身です。

正史によれば身長八尺余り(約185センチ)あり、武勇に優れた豪傑でした。

 

若い頃は郷里で名を知られた人物であり、乱世の中で頭角を現します。

196年頃、孫策 が江東平定を進めて会稽郡を支配下に置くと、董襲はこれに帰順しました。

以後は孫策配下の将として各地を転戦し、江東統一事業に参加します。

孫策の死と董襲の忠誠

200年、孫策が若くして死去すると、弟の孫権が後継者となりました。

しかし当時の孫権はまだ十八歳前後であり、多くの者がその将来を不安視していました。

 

特に母の 呉夫人 は、若い孫権が江東を守り抜けるか心配していたといいます。

そこで呉夫人は重臣である張昭や董襲らを呼び、今後について意見を求めました。

その際、董襲は次のような趣旨を述べています。

江東は天然の要害であり、孫策の恩徳は民衆に深く浸透しております。

孫権様はその事業を継承し、張昭ら文臣が政務を支え、我々武将が外敵を防ぎまする。

地の利と人の和を兼ね備えているのだから何も心配もありません。

 

この言葉によって呉夫人は大いに安心したと伝えられています。

董襲の忠誠心と責任感がよく表れている逸話です。

鄱陽の反乱討伐

孫権の治世初期、鄱陽郡で彭虎ほうこという人物が中心となり、大規模な反乱が発生しました。

反乱軍は数万人規模に達したとされ、江東統治にとって大きな脅威となります。

 

これに対して孫権は、

  • 董襲
  • 凌統
  • 蒋欽
  • 歩隲

らを派遣しました。

 

董襲は積極的に反乱軍を攻撃し、短期間で反乱を鎮圧することに成功します。

正史では董襲の武勇が特に評価されており、孫権からの信頼も一段と厚くなりました。

黄祖討伐での大功

208年、孫権は父 孫堅 の仇である 黄祖 を討つため江夏へ出兵しました。

この戦いで董襲は大功を立てます。

 

黄祖軍は夏口付近に大型戦船である蒙衝を並べ、川を封鎖していました。

さらに巨大な碇石を縄で結び付けて船を固定し、船上から弩を浴びせて呉軍の接近を阻止していました。

 

この堅固な防衛線に対し、董襲と凌統はそれぞれ百人の決死隊を率いて突撃します。

二人は激しい矢の雨をかいくぐりながら碇縄を切断しました。

すると固定を失った蒙衝船は流れに乗って流出し、防衛線は崩壊します。

この突破口から呉軍が総攻撃をかけた結果、黄祖軍は大敗しました。

黄祖自身も逃走中に討ち取られ、孫堅以来の宿敵はついに滅ぼされたのです。

 

この戦功は董襲の軍歴の中でも最大級のものといえるでしょう。

孫家三代(孫堅・孫策・孫権)を翻弄した黄祖

濡須口での最期

董襲の最期は、その忠義を象徴するものでした。

212年、曹操軍と孫権軍が対峙した第一次濡須口の戦いにおいて、董襲は水軍を率いて警戒任務にあたっていました。

 

ところが激しい暴風雨によって艦隊が大混乱に陥ります。

董襲の乗る大型船も転覆の危機にさらされました。

部下たちは避難を勧めましたが、董襲はこれを拒否します。

 

正史によれば董襲は、

「私は主君からこの任務を任されている。持ち場を捨てて逃げることはできない」

と言い、持ち場を離れようとしませんでした。

さらに逃亡しようとする者には厳しく命令を下したとも伝えられています。

 

やがて船は転覆し、董襲はそのまま溺死しました。

享年は明確には伝わっていません。

 

 

董襲の死を聞いた孫権は深く悲しみ、自ら葬儀に参列し、その忠義を称えています。

また遺族に対しても手厚い恩賞と生活保障を与えたと記録されています。

 

これは孫権が董襲を単なる武将ではなく、

創業期から仕えた功臣として高く評価していたことを示しています。

正史における董襲の評価

董襲は周瑜や呂蒙ほど華々しい戦略家ではありませんでした。

しかし、

  • 孫策の江東平定に参加
  • 孫権擁立を支える
  • 彭虎の反乱を鎮圧
  • 黄祖討伐で大功を立てる
  • 最後まで任務を守って殉職する

という功績から、呉の草創期を支えた忠勇の将として高く評価されています。

 

正史『三国志』でも、武勇だけでなく忠誠心を兼ね備えた人物として描かれており、

董襲の名は孫家二代に仕えた功臣として後世に伝えられました。

演義との違い

『三国志演義』でも董襲は孫家の武将として登場しますが、活躍の多くは脚色されています。

特に赤壁の戦いでの戦功は演義による創作要素が強く、正史では黄祖討伐や濡須口での忠義が主な見せ場です。

 

一方で、強風による船の転覆を前にしても職務を放棄せず、

主君への忠義を貫いて死んだという最期は正史・演義ともに共通しており、

董襲という人物を象徴する逸話となっています。