李通(りつう)

曹操が献帝を許昌に招いて擁立した時期に、

李通は曹操に仕えています。

 

198年に曹操が荀攸の反対を押し切って張繍を攻めると、

荀攸が危惧していた通り、劉表が張繍の援軍として駆けつけ、

曹操は打ち破られてしまいます。

李通と趙儼

この時、汝南に駐屯していた李通が、

援軍として曹操の元に駆けつけてくれたお陰で、

曹操は軍を立て直します。

 

軍を立て直した曹操は、

李通が先陣となって張繍軍を破ります。

この功績によって、裨将軍に昇進して建功亭侯に封じられています。

 

 

ある時、李通の妻の兄が罪を犯してしまいます。

陽安郡の趙儼(ちょうげん)は、その兄を処刑しようとしますが、

これに対して、李通の妻子は号泣して助命嘆願しています。

 

しかし李通は、

「今は曹操様と力を合わせており、

私情で公の道義を曲げることはできない」といい、

法にとっとって刑を執行した趙儼を褒め、親交を結んだそうです。

二心抱かず

200年曹操と袁紹が官渡で激突すると、

袁紹が豫州全域に調略をしかけます。

 

しかし豫洲の各郡が動揺する中、

李通がいた陽安郡だけが動揺しませんでした。

 

また袁紹は李通に対して、

「降伏すれば、征南将軍に任命する」と誘います。

 

その際、李通の妻子や部下は、

「私達のみで踏ん張っていますが、

曹操様からの援軍もなく、このままでは滅びるだけです。

一刻も早く袁紹に従った方がいいでしょう」と涙ながらに語りますが、

李通は、その使者を斬り捨てて拒否しています。

 

その際に李通は次のように言っています。

「曹操様は、聡明で物事の道理に通じているので、

きっと天下を治めるだろう。

 

袁紹は強大だが、軍規もなく、部下たちはやり立ち放題で、

袁紹に寝返ったからと、捕虜にされるだけだ。

 

だから私は死んでも曹操様を裏切る事はない!」

 

そして李通は、汝南郡の賊であった瞿恭・江宮・沈成らを討伐し、

彼らの首を曹操に送っています。

 

李通は、淮水・汝水の地を平定し、

汝南太守に任命されています。

曹仁を救出

209年、赤壁の戦いに勝利した周瑜・劉備軍によって、

曹仁を守っていた曹仁は包囲されてしまいますが、

 

李通が援軍にかけつけ、江陵の北道を守っていた関羽を攻撃し、

その後包囲網を打ち破って、曹仁を救い出し、

「武勇第一」と評価される程の活躍をしています。

 

曹仁を救い出した李通ですが、

引き揚げ中に病気にかかり、急死してしまいいます。

曹丕、李通に報いる

曹丕が皇帝になると、

「袁紹と戦い、苦戦が続いていた中、

許・蔡より南では人々は多くの者達が二心を抱いていた。

 

しかし李通は義を貫き通し、二心抱いていた者達を屈服させ、

この地を平定している。私は李通を高く評価する。

 

不幸にも早く死んでしまい、

李通の子である李基(りき)が都亭侯の爵位を継承しているが、

これで李通の働きに報いたとは言えない」と言い、

 

李基を奉義中郎将に任命し、

樊城で功績のあった李基の兄である李緒(りしょ)を平虜中郎将に任命し

李通への恩を子に返したのでした。

三国志演義での李通

正史でこれだけの活躍を見せ、

曹仁を救い出した時は、「武勇第一」とまで評価された李通ですが、

三国志演義では李通に関しての記載はほとんどありません。

 

196年に一度登場した後は出番がなく、

やっと出番が回ってきた潼関の戦いでは、

馬超に一騎打ちを挑み、あっさり切り捨てられています。

李通の評価

 

正史を書いた陳寿は、

臧覇(ぞうは)・文聘(ぶんへい)・呂虔(りょけん)と李通を並べて、

その地域に威厳と尊厳を持って治めた事に対して高い評価を与えています。

 

三国志演義でほとんど評価されていない李通ですが、

魏にとっては欠かせない存在であったのは間違いないです。

 

 

余談ですが、陳寿が同じく高く評価している臧覇も、

李通と同じように、三国志演義ではほとんど出番がありません。

 

しかし魏にとっては李通と同じく、

欠かせない人材でした。

三国志演義で平凡に描かれた豪傑「臧覇」