武陵太守の金旋
金旋は雍州京兆郡の出身で、
金旋の先祖は匈奴出身なのですが、
前漢全盛期を築いた武帝に信頼された金日磾にあたります。
それからの金旋の祖先は、漢王朝に長らく仕えてきた一族という立ち位置になります。
そういうこともあり金旋は、黄門郎や漢陽太守を務めており、
その後は議郎や中郎将兼武陵太守を務めています。
そして曹操が荊州に攻め込んで劉琮が降伏すると、
荊州南部の四郡に、
金旋・劉度・趙範・韓玄らを送り込んでいます。
その時に武陵太守を任されたのが金旋でした。
ただはっきりと言ってしまうと、
曹操がこの四人を荊州南部へ送り込んだという記録はありません。
しかし荊州南部での豪族だったという記録もない点からも、
送り込んだ可能性が非常に高いと言えます。
特に今回紹介している金旋の素性がしっかりしている点からも、
なおさら四人は、曹操から送られたと考えるのが自然だと思いますね。
劉備の荊州南部平定戦
孫権・劉備軍が赤壁の戦いで曹操を打ち破ると、
劉備は荊州南部の平定へと動き出します。
この時に武陵を守っていた金旋は、
「劉備軍にはかわない!」と判断して降伏を申し込みますが、
劉備は何故か金旋を許しませんでした。
そういう経緯から、仕方なく金旋は戦わざるをえなくなります。
他の零陵太守(劉度)・桂陽太守(趙範)・長沙太守(韓玄)の三人は、
劉備に降伏が許されたのに、何故金旋だけ拒否されたのか不思議な所です。
むしろ名家出身ですし、漢王朝に長らく仕えていた一族なので、
一番重要視されてもよさそうではあるのですが・・・
まぁ逆に家柄が良すぎたのが、
劉備にとってどことなく許せない点があったのかもしれませんね。
とりあえず劉備が降伏を許さなかった理由は分かりません。
そして戦いの結果ですが、金旋は普通に劉備に敗北して討ち取られています。
ただ金旋の降伏が許されないのは、
「三国志」で裴松之が注釈を加えている「三輔決録注」に記載されている内容なんですよね。
実際に陳寿が著した「三国志」では、
他の三太守同様に、金旋も降伏を許されたことになっています。
また金旋の息子には金禕という人物がいましたが、
耿紀・韋晃・吉丕と共に曹操へ反乱を起こしています。
ただこの反乱は普通に失敗して、金禕らは処刑されてしまうことに・・・
これにより金旋の血脈は途絶えてしまう事となったのでした。
三国志演義での金旋
横山光輝三国志(28巻129P)より画像引用
三国志演義での金旋は、
正史同様に武陵太守として登場しています。
張飛が攻めてきた際に、金旋の臣下であった鞏志が降伏を勧めるも、
その言葉を聞かずに張飛に戦いを挑んでいます。
ただあっさりと蹴散らされていますね。
そして武陵城に撤退してきた金旋ですが、
鞏志は門を閉ざして開城することはありませんでした。
無謀な戦いを強行し、いたずらに血を流した金旋を非難し、
金旋に向けて矢を放って殺害・・・
金旋の首を手土産にして、鞏志は張飛に降伏を申し込み、
劉備から武陵太守に任命されています。
まぁ参考までに鞏志ですが、三国志演義だけに登場する人物になりますね。