陳羣(ちんぐん)

陳羣は幼い頃から優秀で、

孔融と陳羣の父であった陳紀(ちんき)であったこともあり、

陳羣を見た孔融からもその才能を認められていました。

曹操の逆鱗に触れた孔子の子孫「孔融」

 

そんな陳羣ですが、当初劉備に仕官しています。

まだ劉備が陶謙死後の徐州を引き継ぐ前の話ですね。

 

曹操が徐州の陶謙を攻めた際に、劉備は援軍に向かい、

曹操軍は背後での呂布の反乱もあったりで撤退するんですが、

その後陶謙が病死し、陶謙臣下からも押されて劉備は徐州太守を引き受けます。

 

この時に「徐州太守なんか引き受けてもいいことなんてない。

災いを招くだけだからやめときなさい」と反対したのが陳羣でした。

 

ですが結局呂布に徐州は奪われ、

結果的に陳羣が言った通りになってしまうのです。

曹操に仕える

曹操が呂布を滅ぼすと、陳羣は劉備の元に戻る事ではなく、

曹操に仕える事を決意します。

 

曹操に仕えてからの陳羣は、徐々に頭角を現していき、

侍中にまで出世しています。

 

そして皇太子であった曹丕は、

「陳羣は我が顔回なり」と言って、敬意をもって陳羣に接したそうです。

※顔回・・・孔子の弟子の一人

 

また陳羣は、司馬懿・呉質・朱鑠(しゅしゃく)とあわせて「四友」と呼ばれるほど、

曹丕から寵愛を受けることとなります。

九品中正制度を作る

 

曹操が世を去り、曹丕が跡目を継ぐと、

漢王朝から強制的な禅譲で、曹丕が皇帝に即位します。

魏が建国された瞬間です。

 

220年、陳羣はこれまでの人材登用法から変更し、

「九品中正制度」を作り上げます。九品官人法と言われたりもします。

 

これは、中央から任命された「中正官」という役職を地方に置いて、

一品〜九品に分けて推挙させ、それに基づき中央で官品を与えるというものでした。

 

 

それまでは郷挙里選という制度を取っており、

地方豪族らによって地方から推薦されていましたが、

身内を推薦する行為が頻繁に行われていました。

 

九品中正制度に変更した事で、不正な推挙が行われにくくなり、

優秀な人物が正当に評価されるようになっていったというわけです。

 

陳羣が作り上げたこの九品中正制度は、

隋代初頭の582年まで使われ続けることとなります。

その後の陳羣

曹丕が病気で倒れると、

曹叡のことを曹真・曹休・司馬懿とともに陳羣にも託しています。

曹叡からも信頼を受けた陳羣でしたが、

曹叡の為に献策したことでも、聞き入れられなかった事も多かったようですが、

ただ曹叡の陳羣に対する信頼は、最後まで変わることはなかったそうです。

 

236年に陳羣は、この世を去りますが、

後に曹芳によって、曹操の廟庭に功績の大きかった20人を祭るんですが、

その中の一人に陳羣も含まれています。

 

 

また陳寿は、陳羣のことを

「名誉と徳義を基に行動し、立派な人柄で高い名声を持っていた人物」

と評価しています。