陳羣(ちんぐん、字:長文)

陳羣は、後漢末から三国時代の魏で活躍した人物で、
陳羣は、学識・人格・行政能力のすべてを兼ね備えた魏屈指の名臣として後に名を残す人物です。
派閥や私情に左右されることなく、常に国家と道義を重んじ、
公平公正な政治を貫いた人物としても知られています。
また、人物鑑識眼にも優れ、優秀な人材を見抜く力は当代随一と評されました。
さらに、政治上の重要な意見は密奏として皇帝に直接提出していましたが、
その草稿はすべて自ら破棄していたため、生前はその内容を知る者がほとんどいなかったといいます。
陳羣は名門・潁川陳氏の出身で、祖父は「天下の模範」と称えられた陳寔、
父は高名な学者・政治家の陳紀という名家に生まれました。
幼い頃からその非凡な才能は広く知られ、祖父の陳寔は、
「この子こそ、やがて一族を大いに栄えさせる人物となるだろう」
と将来を期待していたと伝えられています。
さらに、父・陳紀の友人であった名士・孔融も、幼い陳羣の聡明さに深く感銘を受け、
「このような逸材を授かったとは、まことに慶賀すべきことだ」
と陳紀を祝福しました。こうして陳羣の名声は若くして天下へと広まりました。
当時、同郷には後に魏を支える名臣となる辛毗・杜襲・趙儼がおり、陳羣は彼らと並び称えられました。
四人はその才能から「辛・陳・杜・趙」と総称され、潁川を代表する俊英として高い評価を受けています。
劉備に仕え、その先見の明を示す
興平元年(194年)、
陳羣は徐州を治める劉備に招かれ、州政を統括する別駕に任じられました。
やがて陶謙の死後、劉備が徐州の支配を引き継ごうとすると、陳羣はこれに強く反対します。
冷静に情勢を分析し、軽々しく領有すべきではないと進言したのです。
| 「南には袁術、西には呂布という強敵がおり、
今の情勢で徐州を保持することは極めて困難です」 |
しかし劉備はこの忠告を採用せず徐州を領有しました。
結果として、袁術との戦いで主力を動かした隙を突かれ、呂布に本拠地を奪われることになります。
後に劉備は、「陳羣の言葉に従っていれば、このような失敗はなかった」と深く後悔したと伝えられています。
この逸話は、陳羣が卓越した政治感覚と情勢判断力を若い頃から備えていたことを物語っています。
曹操のもとで才能を開花
建安3年(198年)、曹操が呂布を滅ぼすと、陳羣は曹操に召し抱えられます。
以後は行政官として頭角を現し、
人材登用や法制度の整備、政治運営など幅広い分野で手腕を発揮しました。
また人物を見る目にも優れており、徳のない人物の登用には反対し、
優れた人物を積極的に推薦しました。その判断は後にことごとく正しかったことから、
曹操も陳羣の人物鑑識眼を深く信頼するようになります。
曹操が刑罰制度の見直しを議論した際には、
法制度について堂々と持論を述べるなど、政治家としても確かな存在感を示しました。
曹丕を支えた「四友」の一人
曹丕が魏国の太子となると、
陳羣は司馬懿・呉質・朱鑠とともに「四友」と称され、最も信頼される側近の一人となります。
曹丕は陳羣の高潔な人格と学識を深く敬い、古代の賢人・顔回になぞらえて賞賛したとも伝えられています。
延康元年(220年)に曹丕が魏を建国すると、
陳羣は禅譲の実務にも携わり、尚書令など国家中枢の要職を歴任しました。
さらに、中国史上極めて大きな影響を与えた「九品官人法」を制定し、
後漢以来混乱していた人材登用制度を整備しました。
この制度は、その後およそ四百年にわたり中国の官僚登用制度の基本となり、隋・唐で科挙が本格化するまで国家制度の柱となります。
曹叡の時代になると、陳羣は司空・録尚書事として政権の中枢を担いました。
皇帝が大規模な宮殿建設を進めれば民の負担を案じて諫言し、
遠征計画についても慎重論を唱えるなど、常に国家全体の利益を第一に考えて行動しています。
また、張郃の戦死を曹叡が深く悲しんだ際には、その悲しみに理解を示しましたが、
これに対し辛毗は「君主は臣下の前で弱気な姿を見せるべきではない」と異論を唱えており、両者の政治観の違いもうかがえます。
青龍4年(237年)、陳羣は死去し、「靖侯」の諡を贈られました。
その後も功績は高く評価され、曹芳の治世下である正始4年(243年)には、
曹操の廟庭に祀られた二十人の功臣の一人に選ばれています。
| ・曹操廟に祀られた二十六人の功臣-青龍元年(233年) 曹叡の治世《合計三名》- 夏侯惇・曹仁・程昱-正始四年(243年) 曹芳の治世《合計二十名》- 曹真・曹休・夏侯尚・桓階・陳羣・鍾繇・張郃・徐晃・張遼・楽進・華歆 ・王朗・曹洪・夏侯淵・朱霊・文聘・臧覇・李典・龐徳・典韋
-正始五年(244年) 曹芳の治世《合計一名》-
-嘉平三年(251年) 曹芳の治世《合計一名》-
-景元三年(262年) 曹奐の治世《合計一名》- |
そんな陳羣に対して、正史『三国志』の著書である陳寿は、
「名誉と徳義を重んじ、高潔な人格と高い声望を兼ね備えた人物であった」
と評し、魏を代表する名臣の一人として高い評価を与えています。

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