孫登(そんとう)

孫登は孫権の長男としてこの世に誕生します。

長男が生まれた事は、孫権にとって非常に嬉しかったことでしょう。

 

ただ孫登の母親は身分が低い者だったので、

孫権の正室である徐夫人の養子として育てています。

 

 

ある時、魏から孫権に対して、

孫登を人質として差し出すように言われた事もありましたが、

 

魏なんかに自分の大事な長男を人質にあげるわけもなく、

孫登がまだまだ若すぎるという表向きの理由で丁重に断っています。

 

諸葛恪・張休・陳表・顧譚らが孫登の側近として仕えることになりますが、

孫登は側近というより本当の友人としての付き合いをしていきます。

 

その付き合い方は、一緒に食事したり、

一緒の馬車に乗ったり、一緒の部屋で寝たりと、

明らかに君臣の関係を超えていることも多かったそうです。

 

そんな孫登を見ていて、孫権の孫登に対する期待は大きくなっていったのでしょう。

周瑜の娘を孫登の妻として迎えています。

孫登、皇太子になる

229年、孫権が皇帝に即位し、呉を建国すると、

孫登は皇太子になります。

 

そして孫登の側近であり、友人でもあった諸葛恪・張休・陳表・顧譚は、

それぞれに役職を任され、「太子四友」として孫登を補佐していくのでした。

 

人に優しく、人の言葉によく耳を傾けていた孫登は、

多くの者に慕われたのは言うまでもありません。

皇帝に即位した孫権

孫慮(孫登の弟)の死で落ち込む孫権を励ます優しさ

 

孫登は長男であり、皇太子ではありましたが、

孫権が次男の孫慮(そんりょ)を非常に可愛がっていました。

 

理由は孫虜が聡明で才能豊かだったからです。

 

 

孫登は自分が皇太子であるにもかかわらず、

孫権がそれほど孫慮を可愛いと思っているのだから、

「私に代えて孫慮を皇太子にしてあげたらいいのに」とまで言ったとされています。

 

しかし孫慮が20歳で早世してしまうと、

孫権はショックのあまり、食事も喉を通らなくなってしまいます。

 

 

それを聞いた孫登は、武昌から急いで建業に向かい、

孫登の弟でもあった孫慮の死を共に悲しみ、可能な限り孫権を励ましています。

 

それでも孫権が心配だという事で、

武昌は陸遜に任せていれば自分がいなくても問題なく治めてくれると判断し、

孫権の傍にいる事を願い出て、それが許可されています。

※陸遜は孫登の補佐として武昌に滞在中でした。

 

また四友の一人であった陳表が死んだ際には、

わざわざ遺族の為に家を建ててあげたりしてます。

政治手腕にも長けていた

 

親孝行で誰にでも優しく接した孫登でしたが、

どんな時でも冷静に物事を判断することができました。

 

呉の旧都であった武昌を任されると、

陸遜に補佐されながらも見事に武昌を治めたといいます。

 

また孫登が皆をつれて狩猟に行く時には、

田んぼを荒らさないようにし、民衆を気遣った行動を心がけていました。

そんな孫登だったからこそ、民衆からも支持されていたのは言うまでもありません。

孫権の留守中に、建業を任される

234年、孫権が合肥新城を攻めた際には、

孫権は孫登に建業の留守を任せます。

 

しかしこのときに限って、穀物が不作になってしまい、

盗賊が増えてしまいます。

 

この時、罰則などを定めた科令を取り決め、

盗賊対策をし、十分な効果を上げることに成功。

 

このように孫登は、政治手腕にも長けていたようです。

いつも冷静に物事を判断できた

馬に乗って外出していた時の事ですが、

孫登の目の前を金属製の弾球(パチンコ玉のようなもの)が横切る事がありました。

 

孫登の供をしていた者達は、

弾球を発射する道具を持っていた者を急ぎ捕らえましたが、

 

孫登は冷静に目の前を横切った弾球を探させ見つけると、

目の前を横切った弾球とその道具から発射に使う弾球が違ったことから、

その者に罪はなしと判断して釈放したことがありました。

 

 

また金碗(金の茶碗みたいなもの)が無くなってしまった時には、

無くした者を注意をして叱っただけで、それ以上とがめる事もしませんでした。

 

そしてこの者が金碗を無くした事は、ここだけの秘密とし、

他の者に告げることなどは絶対にしないようにと言って、その相手を思いやっています。

孫登の優しさが全面に出ていますね。

 

誰に対しても不公平な事をせず、冷静に状況を見極めて判断した事から、

無実の者が罪に問われたりすることがなかったといいます。

孫権の寵愛を受けることなく世を去ってしまう

 

孫慮が死んで皇太子として安定したかと思いきや、

孫権は、孫和(そんか)を今度は可愛がるようになります。

 

しかし孫登は孫和とも仲が良かった為、

それを恨みに思う事もなく、孫登も兄として孫和を可愛がっています。

心の中では「またかよ」と思ったのかもしれませんが・・・

 

孫登は長男で、皇太子であり、誰に紹介しても恥ずかしくない人物だったでしょうに、

とことんと言っていいほど、孫権から寵愛を受ける事はありませんでした。

本当にどうしてでしょうね?

 

そんな不遇にあった孫登ですが、

結局孫権から寵愛を受ける事もなく、33歳の若さで死んでしまいます。

 

最後の最後まで優しさを貫いた孫登

 

孫登は死ぬ直前、父である孫権に対して遺書を残しています。

 

遺書の内容は、孫権が孫和を寵愛していたので、

「私が死んだら孫和を皇太子にして下さい」と書いてありました。

 

これ見た孫権は、孫登の死を心から悲しんで涙したと言われています。

時すでに遅しとはまさにこのことですね。

諸葛亮の「出師の表」の呉版、孫登の「遺言状」

 

もし孫登が長生きしていれば、孫権の跡を立派に継いで、

呉の国を更に発展させていったと思います。

 

また後に呉の衰退に繋がる後継者争い(二宮の変)が起こる事もなかったでしょう。

 

もしかしたら孫登が死んだ瞬間、

呉の命運は既に尽きていたのかもしれませんね。